生まれたての声【上】 私たちには何が聞こえているのか?

  1. オリジナル記事

◆聞こえない健聴者

 音楽室のような空間に、10人程度が車座に椅子を置いて座っている。

 サークルが開始してから少々経つが、人数相応の喧騒は生まれない。いや、ほぼ静寂と言ってもいい。しかし会話は活発に進んでいる。自分から見て右手に座っている女性がパクパクと口を動かしながら、胸の前で手をひらひらと動かしている。それを見た正面の男性は納得したような顔で、同じように胸の前でひらひらと手を動かす。2人とも朗らかな表情で身振り手振りを続けている。

 私以外は、全員が彼らの動きを理解しているようで、身振りの応酬にたびたび参加している。割って入る時の合図はさまざまだ。大きく上に手を挙げる人もいれば、前に腕を伸ばしバイバイの動きをするような人もいる。全ての仕草に共通しているのは、目の端に映った時に気がつきやすいこと。自分のアピールが輪の中心人物に認められると、その人もひらひらと手振りをする。

 私はひとり、みんなに囲まれながら言いようのないものを感じていた。孤独感、疎外感……。「異物感」が一番適していたかもしれない。幼い頃、背伸びをして大人の会話に参加しようとした時の感覚に似ていた。その場にいるはずなのに何を言っているのかわからず、ただただついていこうと必死になっている。無視はされていないが、存在を認められていない。そんな居心地の悪さがあった。

 「へぇ~」
 「知らなかった」
 「それってでも大変なんじゃないの?」

 音楽室のような部屋で時々、日本語が流れた。その間も人々は身振りは欠かさない。

 私はそれを聞くたびに焦った。断片的な日本語を理解できるがゆえに、自分のわかり得ないところでみんなの話が進んでいることを実感するからだ。日本語という私の母国語はその場では、自分の焦燥感を助長するものでしかなかった。いったいこの気持ちはなんなのだろう。自分は何に焦っているのだろう。

 そして気がついた。私には手話が聞こえないのだ。

手話サークルの会場で(撮影:小山修祐)

 

◆深夜のドライブで語られたこと

 きっかけは友人の話だった。深夜のドライブの帰り、彼がおもむろに始めたのは家族の話だった。彼の両親は耳が聞こえない。だから、彼の家の中で話されるのは手話だ。通常、耳の聞こえない人に話しかける時は肩を叩いたり手を振ったりする。電気のオン・オフで呼びかける方法を使っている家庭もあるらしい。

 その日、母に話しかけようとした彼は、不意にあることを思い出した。母は低い音なら少しだけ聞こえると言っていた気がする。だったら、自分が出せる一番低い声で呼びかけたら、母は気がつくのではないだろうか。そう考えた彼は、母の注意が自分に向いていないタイミングを見計らって「オー」と声を出した。それが聞こえたようで、母はこちらを向き、手話でこういった。

 あなたの声、久しぶりに聞いた。

 彼は驚いた。耳が聞こえないはずなのに、久しぶりに聞いたとはどういうことだ。そう聞くと、母はこう答えた。

 兄妹3人とも、産声だけははっきりと聞こえた。

 耳の聞こえない母は、自分たちが生まれた瞬間の声だけは唯一はっきり聞こえていたのだ。

 私はその話をきいて大きな衝撃を受けた。短い話ではあるが、その中には私が一生で知り得ないような神秘的な感動や魅力が詰まっていた。そして、聞こえるとは、聞こえないとはどういうことなのか、それを知りたくなった。耳の聞こえない人たちはどんな世界を見ているのか、どんな世界に生きているのかが知りたくなった。

◆友人の母を私も利用している…のか?

 友人の話にいたく感動した私は、彼の母へのインタビューを依頼したが、受け取ったのは拒否の意思だった。前にそういったインタビューを受けた時に嫌な思いをしたからだという。そういった取材の類を彼の母親は信頼していないようだ。

 私には「私は前の取材者と違って信頼できます」と証明する方法がない。見方を変えれば私も、友人の母親の特徴を利用しようしている人間の一人であって、どんな言葉も偽ものに捉えられてしまうだろう。

 私はとても困惑した。同時に、顔も知らない前のインタビュアーにも腹が立った。友人が言うには、その人も健聴者だったという。聞こえる人と聞こえない人、その間にはお互いに理解できない世界がある。そこの境界線を無遠慮に踏み越えることは、誰にだって許されない。

 世の中には、前のインタビュアーのように自身の欲のために障がい者に配慮せず、無下に扱う人間が多く存在するのだろうか。いや、そもそも私とそのインタビュアーには明確な違いがないのかもしれない。耳の聞こえない彼らと私たちの間に、分かり得ない境界線があることを知っていても、それが彼らの助けになるとは限らない。見えている世界が違うことを知っているだけで、彼らが困っている時に手を差し伸べることができるかどうかは別の問題だ。駅や街頭で困っている聾唖(ろうあ)者がいたとしても、私には動ける自信がない。ましてや、絶対に理解し合えない世界をわかっているつもりになっているとしたら、その方が無知よりもいくらか危険である。

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