生まれたての声【下】 誰もが被差別の順番待ちだ!

  1. オリジナル記事

◆隣人を想像するということ

 誰も彼もが、障がい者が世の中に存在することを知っているのに、自分の身の回りにいることを想像できていない。

 1回目のサークルの最後に、私は3つ目の質問をした。

 「私たち健聴者の、特に若者に求めることは何かありますか。」

 すると、私のインタビュー依頼を断った、あの友人の母親がこう答えた。

 地震などの災害があったときに、助けや知らせが必要な人が必ず近所に存在する。それは、耳の聞こえない人であったり、目の見えない人であったり、車椅子に乗った人だったり。そういった人たちのことを近隣のみんなで認知しておいて、いざとなったら助けに来てほしい。

 そう、彼らは私たちの周りに確実に存在しているのだ。助けを求めている彼らが。

 私たちは義務教育の過程で、障がいについて学んでいる。しかし、私たちの理解・想像・実感の不足によって、それらは机上のものにとどまってしまっている。世の中にいることを知っていても、同じ国に、同じ空間に、自分の隣にいるとは感じていない。それは、環境問題や貧困にも通ずる。温暖化が加速していることを知っていても、私たちはわが身のこととして考えることを面倒くさがる。何万人もの子どもが餓死していたって、私たちは食べ物を余らせ、腐らせ、近所の貧困児の腹が鳴る。

 多数派の想像力の欠如によって、少数派の恐怖は増し、彼らとの壁は大きく高くなっていく。障がい者という概念を作り出したのは、私たち健常者なのだ。

 私と小人帽子の女性は改札の前に着いた。「ありがとう」の手話を残して彼女は人ごみに消えた。

◆交わらない世界のために

 ろう者だけが知ることのできる世界がある。それは私たちが見ているものと限りなく近いが、一点のみが明確に違っている。その違いを生み出しているのは、多数派の健聴者だ。彼らの存在を認識できないことが生み出す違和感や孤独感。その一点が彼らとの大きな壁のようなものを作り出している。

 ろう者が話す手話も、日本語や英語と変わらない、ただの言語である。耳で聞くか、目で聞くか。そこに大きな差はないように思える。手話の振りのスピードや大きさの変化、口話と表情。これらを組み合わせることによって、耳で聞くのと遜色のないコミュニケーションを可能にしている。豊かな表情を用いる必要があるため、もしかしたら、手話の方が日本語よりも感情豊かで力強いかもしれない。

イメージ

 

 私は初めて手話サークルに参加した時、違和感を抱いた。それは、いつもろう者が感じていたものと同じだったと思う。自分が多数派か少数派かは、裏表の関係にある。誰もがある場面では多数派であり、違う場面では少数派になり得る。

 私が最初に感じた違和感は、健聴者の誰もが抱く可能性がある。世界から見れば、日本語の話者はごくごく少数である。日本人が海外に出れば、言語における違和感や孤独感は嫌でも感じるだろう。その時に、英語話者というマジョリティに無下に扱われたら誰だって悲しい。手話も日本語も英語も言語だ。その悲しみと同じものを日々抱いている人が、日本にも普通にいるのだ。私の近くにも、あなたの近くにも。

 誰しもが状況によって多数派にも少数派にもなる。それを忘れて少数派を差別したり攻撃したりしていると、いずれ自分が標的になる。いつだって私たちは被差別の順番待ち状態なのだ。自分に番が回ってこないためには、自分が“攻撃しない多数派”になるしかない。だから、あの混雑した駅の改札で小人帽子の女性に声をかけたことを、いま、私は誇らしく思っている。

(小山修祐・大学4年)

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