「@Fukushima 私たちの望むものは」のまえがき あとがき

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 私は2011年6月末、4半世紀働いた北海道新聞社を退社しました。東日本大震災の年です。その12月、「@Fukushima 私たちの望むものは」を東京の出版社・産学社から刊行しました。以下に紹介するのは、その「まえがき」と「あとがき」です。
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◆まえがき◆

 東日本大震災から、半年が過ぎた九月中旬の午後。私は福島県南部の街にいた。

 二両編成の電車を降り、駅前へ出る。人通りはほとんどない。客待ちのタクシーが三台。それをやり過ごして信号を過ぎると、小さな川を渡った。二つ目の信号は右折。次の角は左折。目指すアパートは、青みがかった灰色の三階建てだった。都会ではごくふつうのアパートだが、郡部のこのあたりでは小綺麗で立派な部類に入るかもしれない。

 「C」の部屋に表札はなかった。

 インターホンを押し、玄関を空けてもらった。たたきには、靴がいくつかきれいに並んでいる。

 「よく来て下さいました。遠くからご苦労様です」

 窓際のソファから声がかかった。志賀秀朗さんの第一声だった。

 福島県に行く機会があれば、どうしても話を聞きたい人がいた。それが志賀さんである。

 事故を起こした福島第一原発は、大熊町にある。志賀さんは一九八七年から五期二〇年、大熊町長を務めた。町長になる前は、東京電力の社員だった。一九六三年に東電の「福島調査所」という最初の拠点ができた際、地元採用の臨時社員として東電に入社。一号機の測量から関わった。一号機の臨界を現場で経験し、六号機の稼働まで建設現場で見届けた。そして町議から町長へ。「福島原発と東電」を体現したかのような人生である。

 志賀さんの父・秀正さん(故人)も大熊町長だった。

 就任は一九六二年のことだ。原発計画が決まった後、工事が始まる前。そんな時期に町長となり、一九七九年までの一七年間、その椅子に座っていた。ちょうど、福島県の浜通り地方が原発銀座になっていく時代と重なっている。

 父子ともが町長として原発と深く関わっていたためか、厳しく「責任」を問うメディアも一部にはあった。原発事故の元凶の一人であるかのような批判を浴びてもいた。しかし、「本当にそういうことでいいのだろうか」という思いを、私は消すことができずにいた。有り体に言えば、志賀さんには事故の責任の一端はあると思う。しかし、遠くから声高に責任を問うのはたやすい。「正義」の旗を振りながらであれば、そうした行為はさらにたやすい。

 志賀さんの自宅は海沿いの高台にあり、原発から一キロ余りしか離れていなかった。近所の家は津波で流された。志賀さんの自宅も揺れと津波でめちゃくちゃになった。地震の当日に避難し、葛尾村や福島市など県内を転々とした。その後、神奈川県の川崎市や横浜市に行き、六月下旬になってようやく福島県南部のこの街に落ち着いた。

 志賀さんは、やはり相当の年を感じさせた。動作は緩慢で、立ち上がることが少し億劫なようだ。体全体に疲れがにじみ出ているようにも映った。長い避難生活が影響しているのかもしれない。

 それでも口調には揺らぎがなかった。東北地方独特のアクセントでゆっくり話す。一人掛けのソファに深く腰を沈め、姿勢は滅多に変えなかった。右手に火の付いてないタバコを長く持ち、何十分も過ぎたころ口元へ運ぶ。傍らに正座した奥さんがその都度、「ほら、灰を落とすんじゃないよ」と言いながら、ライターで火を付けた。

 志賀さんはいろんなことを語った。

 東向きの窓際に座って、記憶をたぐるように言葉をつなぐ。それは浜通り地方の戦後の歴史絵巻であり、知るはずもない大熊町のかつての風景が映像になって頭に浮かぶようでもあった。

 原発建設が始まる直前まで、大熊町は貧しさを極めた。志賀さんは七人きょうだいの長男。臨時社員として東電に入る前は、当然のように家業である農業を継ぎ、来る日も来る日も田んぼに出ていた。

 「……凶作になると、コメが取れない。そういう年は国の失業対策事業の仕事で食いつないで。道路の普請とかに出てな。『町長の息子がなんでこんなところに出てんだ』って言われながら、失対事業に出た。背に腹は代えられねえわな」

 コメを収穫すると、農家にはようやく、年一回の現金収入がある。田んぼが終わると、大半の男たちが東京周辺へ出稼ぎに行った。凶作の年は、国がつくった「失業対策事業」で道路工事などの仕事に出かけ、現金を稼いだ。「無尽」の風習が残り、農閑期には毎年順繰りにそれぞれの家屋の修繕を共同で手掛けていた。自転車を持つことが、豊かさの現れだった。村は農家ばかりであり、「会社」というものがなかった。役場を除けば、「職場」がない。サラリーマンはほとんどいないから、通勤もない。

 「……そういう生活が消えていくんです、東電が来てから。貧しい生活が消えていくんです。失対事業が消えて、出稼ぎが消えて。原発の工事が進むと、人はどんどん集まってくる、家はできる、道路は舗装される。目に見えて、豊かになっていくんだ。事故の後、『大熊は金に目がくらんだ』みたいに言う人がおるけれども、あの時代、あの生活を抜け出すために、みんな必死で働いたんだ。タダで金をもらったわけじゃない。みんな働いた。必死でな。『東電が来た』ってことは『仕事ができた』ってことなんだ」

 ものごとにはすべて歴史がある。それがたどってきた道筋がある。ある時期には「正しい」とされたことが、後々になって断罪されることも珍しくない。そして、社会は複雑である。右か左か、白か黒か、善か悪か。そんな単純な図式で、世の中が理解できようはずがない。白から黒の間の「グレー」は何段階も何十段階にも、それこそ無限に濃淡がある。

 原発事故をめぐる状況も、それとかけ離れているはずがない。

 ただ、大震災の日から半年近くが過ぎても、私は言いようのない違和感をぬぐえずにいた。

 理由の一つは、おそらく、マスメディアを通じて流れてくる「福島の声」が、ステレオタイプに過ぎたからだ。

 新聞かテレビか雑誌か。媒体の種類は何であれ、伝わってくる声の数々は、どこかよそよそしく、どこか紋切り型だった。人々の複雑な事情や思いを言い尽くすには、あまりにも短く、あまりにも整いすぎていた。時にはスローガンのようであり、時には悲しみや明るさが必要以上に強調されてもいた。

 そうした声を見聞きしながら、「本当はもっともっと丁寧に、福島の声を伝える必要があるのではないか」と考えていた。原発事故という未曾有の事態を前にして、何十万人、何百万人という人が、怒り、戸惑い、悩み、諦め、そして先々への望みを抱きながら、もがくように日々を過ごしている。

 私たちは二〇一一年の八月から一〇月にかけ、そんな人々の声を聞いて歩いた。取材者は録音機を傍らに置き、寄り添うようにして「福島の声」に耳を傾けた。その結果、インタビューが長時間になることも珍しくなかった。例えば、志賀秀朗さんへの取材は二日間で都合七時間に及んでいる。

 本書はそうやって聞き取った、本編三四人、写真二七人、計六一人の声によって構成されている。

 手塩に掛けて育ててきた牛を処分し、村を出ざるを得なくなった人。誰もいなくなった山村でイワナを守り続けている人。子どもを連れて福島を去った母親と、逃げたいのに逃げ出せない母親。福島にとどまって再起を賭ける人、福島を飛び出して再出発する人。反原発運動を続けていた人たちの無念を聞き、首長たちの思いも聞いた。 
 何が正しくて、何が正しくないか。

 ここにその回答はない。

 しかし、何十万分の六一、何百万分の六一かもしれないが、なかなかぶつけることのできなかった「福島の声」が詰まっている。悲しみ、怒り、諦め、やるせなさ、踏ん張り、希望、そういった「福島の思い」が詰まっている。 
 そうした人々がいったい、何を望んでいるのか。 
 それを読み取っていただきたいと願っている。

◆あとがき◆

 社会の記憶はどうやって引き継がれるのだろうか。

 最近、よくそんなことを考える。

 私の個人的な体験を少し記したい。私は日露戦争を知っている。書物に書かれた歴史上の日露戦争ではなく、「直接」である。

 4歳か5歳か、小さな子どもだったころの話だ。郷里・高知の自宅近くに祖父の兄が住んでいた。明治生まれで、当時80歳くらいだったと思う。元は畳職人だったらしく、使わなくなった作業場が私の遊び場だった。そのしわくちゃの顔が、あるとき「ロシアのパンほどまずいものはない」みたいなことを言い出したのである。

 「おんちゃんはほら、日露戦争に行っちょったろうが。けんど、あの戦争いうたら、のんびりしたもんよ。パンと握り飯を兵隊同士で交換しよった」

 話によると、丘を挟んで戦闘になった後、昼時にラッパが鳴ったのだという。その音で「撃ち方やめ」になり、ほどなく、ロシア兵が黒パンを日本側へ投げてきた。若い日本兵がおそるおそる歩み出て、取りに行く。無事に取って戻ると、今度は日本兵がロシア側に握り飯を投げ返した、と。

 そんなのんびりした戦闘が本当にあったのかどうか、もう確かめようがないが、「パンと握り飯」「昼の合図のラッパ」の話は耳にこびりつき、今も離れない。

 日露戦争から約40年後、今度は私の父が徴兵で中国戦線に駆り出された。父は北京近郊で終戦を迎えたらしい。「戦争が終わって(中国共産党の)八路軍に追われながら、逃げ帰った」という話は、数え切れないほど聞いた。父は5人きょうだいの下から二番目で、兄は南方で戦死した。戦争の混乱時に病死した姉もいる。だから、終戦の年の末、父が生きて高知に戻ったとき、「あればあ、母さんが泣いたことは見たことない」と父が言うほど、祖母は泣いたという。

 子供のころ、彼岸はいつも墓参りに付き合わされ、墓石の前でそんな話をしばしば聞かされた。

 当時と今は社会の事情が違う。その最たるものは「メディア」である。

 現代では、多くの事象が「出来事」「事件」として大メディアに乗り、広く社会に伝播していく。そこでは「政府は」「日本は」といった大文字の主語が盛んに使われ、「山田さん」「鈴木さん」「佐藤さん」といった、小文字が主語の物語はほとんど伝わってこない。「日本の歴史」はあっても「人々
の歴史」は、探し出すことが困難なのだ。

 大メディアが形づくる記憶と記録が「大文字の世界」に偏在したままで良いのかどうか。それらは紋切り型の、キャットフレーズのような文言が多すぎないか。そうしたことが重ねれば、やがては短い言葉だけが乱暴に飛び交う社会が当たり前になってしまうのではないか。

 私は常々、そんなことを考えていた。

 それに何より、人は忘れやすい。驚愕するような大惨事であっても、当事者で無い限り、半年もすれば早くも忘れかけ、「日常」へ戻っていく。先の日露戦争の話も似たようなものだ。祖父の兄は「戦地でのパン」のほかにも、たくさんロシアの話をしてくれた。凍った川を馬で渡った話もあった。

 しかし、それがどんな話だったのかは、もう思い出せない。聞き返すこともできない。おそらく、人や社会はそうやって大事な何かを忘れていく。そして大メディアなどが伝えた内容が記録として残り、大手を振って、社会の記憶として受け継がれていくのではないか。

 本書は「希望」と同様、稀代のインタビュアー、スタッズ・ターケル(米国、1912~2008年)の手法に則って、ひたすら人々に寄り添い、声を引き出し、記録することに傾注した。その多くは、ごくふつうの、市井の人々である。そうした声の集積こそが時代の忠実な反映であり、社会や歴史に対するものの味方を再構築する作業だという確信もある。

 「@Fukushima 私たちの望むものは」は2011年の6月ごろから企画に着手した。原発事故という空前の出来事を前にして、地域の人々がいったい何を感じ、何を考えているのか、その「思い」を記録したかった。

 一番の問題は、だれを取材するか、にあった。簡単に言えば、福島県民全体が取材対象者である。コンセプトを拡大すれば、福島在住者でなくても福島に関わる人は全員、原発にかかわる人も全員、もしかしたら日本国民すべてが取材対象者と言えるかもしれない。それだけの事態が生じている、ということの裏返しでもある。私たちは大いに戸惑ったが、それぞれが自分の判断で人々に会いに行き、耳を傾けた。「なぜ、この人が登場しているのか」については、当事者たちの声をじっくり読めば、分かっていただけると思う。

 取材計画をつくりながらも、最終的には取り上げることができなかった人も大勢いる。例えば、現在も収束に向けて懸命の作業が続く福島第一原発の関係者については、今回、取材しなかった。それらは別の機会にぜひ、同様の形で取りまとめたいと考えている。

 インタビュアーは今回、本間誠也末澤寧史、野口隆史、小淵由紀子、佐藤一、弓場敬夫の各氏が担当した。いずれも十分な信頼に足る、私の仲間である。もちろん、私自身もインタビューに赴いた。取材者を多くすることは、取材目線の多様化につながる。私は常々そう考えているが、それも含め、本書が成功しているかどうかは、読者諸氏の判断を待つしかない。

 登場人物の年齢や取材内容は、いずれも2011年8月から10月にかけての、取材時のものをそのまま使っている。編集作業が終わるまでの間に、種々の状況が変わった人もいるが、「歴史の記録」という意味もあって、取材時のままの状態で留め置いた。

 2011年11月

「@Fukushima 私たちの望むものは」

高田昌幸
 

ジャーナリスト、東京都市大学メディア情報学部教授(調査報道論)。

1960年生まれ。北海道新聞、高知新聞で記者を通算30年。北海道新聞時代の2004年、北海道警察の裏金問題取材で取材班代表として新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞などを受賞。

 
 
   
 

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