◆理不尽と苦悩 BC級戦犯が問うたものとは?
油山で米兵を処刑してから5日後、日本は連合国に無条件降伏し、敗戦した。戦後の混乱の中、捕虜の処刑に関わった軍人は戦争犯罪人として裁かれるという話が流れ始める。自身が絞首刑になることを恐れた左田野さんは逃亡を決意。名前を変え、経歴も偽り、岐阜県多治見市の製陶工場に潜伏する。生きたい、生きていたい。その思いを秘め、一心不乱に働き、経営者の信頼も集めた。工場で重職を任されていく。そんな年月を積み重ねていたとき、ついに官憲に見つかり、巣鴨プリズンに送られた。3年余りの逃亡だった。
横浜軍事法廷では、当時の上官らが責任逃れの言を弄し、責任をなすりつけ合った。それは、この油山事件に限らない。太平洋地域のあちこちで開かれたBC級戦犯の軍事法廷では、約5700人が裁かれ、900人余りが死刑判決を受けた。左田野さんがそうであったように、命令に従ったことが罪に問われていく。一方、命令を下した者の中には、否認を続けたり、罪から逃げおおせた者もいる。裁く側の戦勝国は、原爆投下や各地の空襲で一般市民を殺戮した罪を問われない。これはいったいどういうことなのか……? 理不尽と苦悩の中で、BC級戦犯は苦しんだ。
左田野さんの判決は重労働5年だった。判決が出たのは、BC級戦犯としては最も遅い1949年10月。中国やソ連との対立激化により、戦勝国の米国が戦犯をゆるす方向に転じたことが大きく作用したと思われる。
『逃亡』を著した小林弘忠氏は元毎日新聞の記者だ。左田野氏の手記が残されていることを知り、遺族を見つけて拝読を願い出る。そのプロセスは原資料を探し出そうとする調査報道のプロセスと何ら変わらない。それにしても、同書を貫く緊迫感はただものではない。逃亡先での生活そのもが緊張に満ちており、同時に左田野さん自身の苦悩や実直さが手に取るように伝わってくる。単に戦史を掘り起こしただけはなく、人と戦争はどういう関係にあるのか、命令を出す者の責任と従う者の責任は何かといった根源的な問い掛けが重なっていく。
小林氏は「あとがき」でこう記している。
終戦直後、拘束を逃れるために逃亡した元軍人は少なからずいた。しかし、逃走後のことはまったくといっていいほど記録はなく、したがって戦後のいきざまを知ることはできない。(略)戦犯たちが都合の悪い戦中戦後のことにはほとんど押し黙ったままでいるのに、(左田野さんが)すべて自分をさらけ出した手記をしたためていたのは、斬首したアメリカ兵への深い愛惜と、逃亡せずに死刑判決まで受けた同期生に対する謝罪があったと思う。
小林氏は文庫化に際し、とくに若い人にこの書を読んでほしいと書いた。筆者(高田)も全く同じである。
■参考URL
『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』(小林弘忠著)
『法廷の星条旗 BC級戦犯横浜裁判の記録』(横浜弁護士会著)
Yahoo!ニュースオリジナル特集『「これからもこういうことはある」BC級戦犯が残したもの』
2