「菅生事件」報道 本格的な調査報道の草分け

  1. 調査報道アーカイブス

「菅生事件」大分の地方紙や共同通信など(1956〜1957年)

 

[調査報道アーカイブス No.5 ]

 1952年(昭和27年)6月2日午前零時半ごろ、大分県菅生(すごう)村(現在の竹田市菅生)で、警察の駐在所が突然、ダイナマイトで爆破された。警察は、爆発直後に現場付近を歩いていた日本共産党員2人のほか、仲間の党員3人を逮捕。計5人は爆発物取締罰則違反で起訴された。これが菅生事件の始まりである。

 事件は当初、共産党よる武力闘争の一環だと報道された。当時の日本は、敗戦の混乱期。連合国軍総司令部(GHQ)の主導した日本社会の民主化政策は、東西冷戦の高まりによって頓挫。1950年6月に勃発した朝鮮戦争の前後には共産党員やその支持者らを公務員や企業から追放する「レッドパージ」も本格化していた。いわゆる「逆コース」である。事件はそうした騒然たる雰囲気の中で発生し、メディアの主流だった新聞各紙も「共産党よる武力闘争の一環」として報道した。

 様相が変わるのは、公判が始まってからである。

 一審の大分地裁で被告らは「事件当日の深夜零時、共産党シンパの『市木』という人物に駐在所付近の中学校に呼び出され、その帰りに逮捕された」「事件は共産党弾圧のためのでっち上げだ」などと述べ、無実を訴えた。だが、言い分は通らず、5人全員が有罪になった。

 「市木」は事件の約3カ月前に菅生村に現れた。製材所で働きながら、共産党員らと一緒に行動し、事件後には行方不明になったという。「市木がカギ」と見た大分新聞と大分合同新聞の記者2人はその後、被告弁護団の協力も得ながら、取材を進めた。その結果、国家地方警察大分県本部の警備課巡査部長の「戸高」という人物が、行方不明になっていたことがわかった。その時期は、「市木」が菅生村に来る少し前だ。「戸高」と「市木」人は同一人物ではないか。2人の記者は、「市木」を知る住民らに「戸高」の顔写真を見せ、両者は同一人物だと確認。大分新聞と大分合同新聞は1956年11月末、その事実を相次いでスクープ報道した。

 ところが、警察は「戸高はすでに退職している。退職後の行方は不明。事件とは無関係」と主張する。これに対し、今度は毎日新聞が「戸高は現在、国家地方警察本部(現在の警察庁)の警備課に勤務している」という事実をつかみ、スクープとして報じた。1957年3 月13日朝刊の「菅生事件のナゾ 姿を消した警察官」という大型記事だ。この頃になると、事件は国会でも問題となり、警察庁側が防戦一方の答弁を続けていた。

 各報道機関の取材合戦が過熱する中、同じ3月、決定的な展開があった。共同通信社会部の取材班が東京都新宿区のアパートに潜伏していた戸高を発見。単独で会見を行って、「市木」を名乗っていたことなどを認めたのだ。共同通信は「消えた警察官 戸高現わる」として全国の加盟紙に3月15日用朝刊として記事を配信した。

 その後、戸高は警察に匿われながら警察大学校などに潜伏していたことが明らかになった。交番爆破に関しては、自らダイナマイトを運び、共産党員に見せかけた駐在所宛の脅迫文をつくったことなども認めていく。罪をなすりつけられた共産党員ら5人の被告は、控訴審で逆転無罪が言い渡された。法務大臣や国家公安委員長は、戸高を共産党に対する「潜入捜査」に従事させていたことを認め、駐在所爆破は警察による陰謀、自作自演だったことが明らかとなった。

 各報道機関が激しく競争しながら、また、ある時は協力しながら続いた取材は、こうやって“権力の犯罪”を明るみに出したのである。「調査報道」という言葉も生まれていない、60年余りも前にそれは成し遂げられた。一連の報道が1958年の第1回日本ジャーナリスト会議大賞に選ばれた際、受賞者の所属は大分合同新聞、大分新聞、福岡のラジオ九州(現・RKB毎日放送)、ラジオ東京(現・TBSラジオ)、共同通信という多岐にわたった。毎日新聞や朝日新聞も菅生事件報道に大きな足跡を残している。

 もちろん、問題点もあった。見逃せないのは、事件発生前後の取材である。爆破の翌日、駐在所に勤務する警察官の妻は報道陣を前にして「昨晩、駐在所が爆破されることを知っていました。主人から共産党員が爆弾を投げ込み来ると聞かされていました」と語ったにもかかわらず、それを顧みなかった。事件発生前から現場付近になぜか多数の警察官が待機していたことも重視しなかった。その挙げ句、警察の筋書きに沿って、「警察お手柄 日共武装組織検挙」といった内容の記事を書き、冤罪づくりに一役買っていたのだ。

 なお、共同通信社会部の取材班には、後にジャーナリズム界のご意見番となる故・原寿雄氏がいた。原氏は自著「ジャーナリズムに生きて」(岩波現代文庫)の中で、特ダネには3つの種類があるとし、「発表を予定より早く抜くケース、時代が進むにつれニュース価値観が変わるため生まれるもの、記者が掴んで報じなければ社会に表面化しない情報」を挙げた。そして、菅生事件報道を振り返り、それまで警察情報に依存してきた事件報道について「根源的な疑問」が生まれたと書いている。この問いは今現在においても、報道界は解決しきれていない。

 もう一つ。「戸高」はその後、警察庁に復職を果たし、ノンキャリアの警察官が昇進可能な最高クラスの警視長まで昇進し、無事に退職した。これも特筆すべき事項かもしれない。

■参考URL
共産党員逮捕の菅生事件 警察の不正暴いた取材合戦
単行本「消えた警官 ドキュメント 菅生事件」
文庫「ジャーナリズムに生きて――ジグザグの自分史85年」
「菅生事件」最後の冤罪被害者 阿部定光さん死去

本間誠也
 

ジャーナリスト、フリー記者。

新潟県生まれ。北海道新聞記者を経て、フリー記者に。

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