『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』(東奥日報・斉藤光政氏、2020年)
[ 調査報道アーカイブス No.91 ]
◆ニセモノ作りの現場をファクトで暴いていく取材
「東日流外三郡誌」と書いて、「つがるそとさんぐんし」と読む。古代の津軽(東日流)地方には、邪馬台国から迫害された民族による幻の文明が栄えていた──。外三郡誌は、歴史の教科書に書かれていない「もう一つの日本史」が記録された“古文書“である。1947年に青森県五所川原市の農家の屋根裏から大量に発見され、その数は数千冊にのぼった。
ところがこの古文書、すべてニセモノだった。いや、正確には「偽書との評価が定着している」といった方が正しいかもしれない。外三郡誌をめぐっては1990年代に真贋論争が法廷闘争に発展するほど激しくなり、真書派と偽書派の対立がメディアを騒がせた。偽書説が確定した現在でも、外三郡誌に描かれている幻の歴史を信じる人がいるという。
「戦後最大の偽書事件『東日流外三郡誌』」(集英社文庫)は、青森県の地方紙・東奥日報の斉藤光政記者が、外三郡誌の真贋論争を10年以上にわたって取材し続けた記録である。
斉藤記者は、学会では「ニセモノ」として相手にされていなかった外三郡誌が、歴史好きの間で「真実の歴史」として広く受け入れられていることに危機感を覚え、紙面を通じて外三郡誌のウソを次々に暴いていく。真書派から批判を受けても、新聞記者らしく事実のみを淡々と記事にし、真書派の主張を一つずつ退けていく。最後には、古文書が発見された家の実地調査に同行取材して偽書製作の現場を暴露する。
偽書製作の現場を記したくだりは衝撃的だ。外三郡誌を自宅の屋根裏で発見した和田喜八郎氏は、一人で古文書郡を管理していた。原本を外部の研究機関などに貸し出すことをせず、外部には写しやコピーだけを提供していた。1999年に和田氏が死去し、斉藤記者が2003年に和田氏の暮らしていた住宅に調査に入った時、屋根裏に数千冊の古文書を収納できるようなスペースはなかった。代わりに見つかったのは、ペットボトルに入った大量の小便。新しい和紙に小便をかけると、古文書のように見えるのだという。どれだけ「ニセモノ」と批判されても、和田氏は何十年も自宅で偽書を作り続けていたと思われる。
それにしても、こんな内容の古文書を信じる人がいるのか。その実例が本書には次々と出てくる。
ある時は、福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らず」は外郡誌からの引用だった。事実であれば大ニュースだ。ところが、福沢諭吉から和田家に送られたとされる手紙の原本はどこにもなかった。あるいは、縄文時代の集落跡である三内丸山遺跡の絵が、外三郡誌に描かれていたという。ところが、その絵はなぜか、三内丸山遺跡が発掘された後に現代の考古学者たちが「推定の集落の想像図」として描いたイメージ図とほぼ同じだった。膨大な古文書郡であるにもかかわらず、筆跡はすべて同じ、誤字のクセも共通していた。素人が見ても荒唐無稽な古文書だが、なぜか外三郡誌は熱狂的に受け入れられた。その理由について、斉藤記者はこう書いている。
かつて縄文文化の中心地であった東北北部が、鎌倉の武士政権によって「日本」の版図に組み込まれるのは十二世紀末のこと。それまで、原東北人である蝦夷(えみし)は中央から化外(けがい)の地に住むまつろわぬ民」とさげすまれ続けた。
歴史的に抹殺された側の視点で再構成された日本史だからこそ「何かがあるはずだ」と、既存の歴史書にあきたりない人たちは考え、外三郡誌に触手を伸ばした。「正史の陰にこそ真実がある」と意図的に語る研究者やマスコミが積極的に宣伝役を務めたのも事実だった。
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