いかにしてバブルに翻弄されたのか スキーと温泉の『東京都湯沢町』

  1. 調査報道アーカイブズ

新潟日報(1988年)

[ 調査報道アーカイブス No.74 ]

◆「私をスキーに連れてって」「株価38,915円」の時代

 バブル期のスキー人気を象徴する映画「私をスキーに連れてって」(原田知世主演)が公開されたのは、1987年11月だった。東京証券取引所の日経平均株価が史上最高値の38,915円を記録したのは、1989年12月29日。日本中がバブル景気に浮かれていた。新潟日報の連載企画『東京都湯沢町』は、その両年にはさまれた1988年12月にスタートした。東京であふれたバブルマネーがたどり着いた新潟の地で何が起きたか。その実態に密着したルポである。

 群馬県との県境にある温泉郷・新潟県湯沢町は当時、リゾートマンションの建設ラッシュに湧いていた。『東京都湯沢町』の初回には、75歳の夫と67歳の妻が登場する。2人は東京で時計店を営んでいたが、湯沢町に山小屋と山林を持っていた。山小屋を建てたのは30年ほど前。冬の一時期、都会の喧騒を離れてスキーを楽しむためだった。やがて店をたたみ、完全に新潟へ移住する。ところが、バブルの絶頂期を前に夫妻は思わぬ事態に巻き込まれた。夫はこう言っている。

 「土地を売ってくれ!」という不動産業者が 11社も来たんですよ。朝から晩までとにかくすごかった。

 カネがカネを呼ぶバブル景気。投資先を求め、マネーは山深い湯沢町に押し寄せる。東京を捨てた夫妻を東京の不動産業者が追いかけてきたのだ。地上げ業者の攻勢は激しい。朝から夫妻を追い回す。土地を欲しがる業者が勝手に山林に入り込んで測量する。ガラの悪そうな男たちが山小屋の周囲をうろつく。先に完成したリゾートマンションの階上からゴミがばらまかれる。

湯沢町のスキー場(湯沢町観光協会のHPから)

 

 もうこんな場所には住めないと決意するまでに時間はかからなかった。夫妻は「いい加減にしろ」との怒りを込めて山林を入札方式で売ることにした。入札場所はJR越後湯沢駅前の喫茶店である。

 (入札に参加する)ひとつが怖そうな会社で…。入札は夕方からだったのに、いかにもソノ筋とわかる人たちが朝から晩までその喫茶店に入り浸っていた。入札の時も気味悪くて、ドキドキのしどおし。

 山林を売ると、今度はその売却収入を目掛けて、数々のダイレクトメールが届き、郵便受けから溢れた。引っ越し先は同じ湯沢町。新たに買った腸内の土地は坪約30万円だったのに、それすらも1年で100万円以上に高騰した。付近には坪1万円だった土地が3〜4年で25万円以上になったなどの例がいくらでもあった。「あの人が土地を売って、何億も入ったそうだ」「2、3億円なんて、ここらじゃ驚くほどの額じゃない」。連載では、そんな話が次から次へと登場する。

◆全国のリゾートマンションの3分の1が集中

 民間の不動産経済研究所によると、1988年に全国で売り出されたリゾートマンションは11,564戸で、その3分の1以上に当たる3,912戸が湯沢町に集中していたという。その時点で計画中だったものも含めると、人口1万人足らずの湯沢町のマンションは、計83棟・2万2000戸余りに達していた。そのほとんどが10階以上の建物だ。

 『東京都湯沢町』は1989年7月まで続く。そのシリーズ終盤にこんな話が登場する。

 県北のある首長は湯沢町の現状を「もう東京そのままだね。あそこに新潟はないよ」と語った。
 「東京都湯沢町」ーー半年以上にわたる取材の中で目に映ったものは、すさまじい勢いで東京化されていく湯沢町の姿であり、好むと好まざるとにかかわらず、その巨大な渦に巻き込まれていった町民の姿だった。
 リゾートマンションを見た多くの人が「異常だ」と言った。そして「空前の一極集中だ」と続けた。確かにリゾートマンションはブームだった。だが、ブームの去った跡にはコンクリートのマンションが残る。嵐が過ぎて湯沢町はどうなるのかー。
 「昨年(1988年)の今頃は連日、建築確認申請や問い合わせで、デベロッパーが窓口にズラーっと列を作って、昼休みさえ取れない状態でした。今はたまに電話で問い合わせがある程度」と、押しかけるマンション業者と渡り合ってきた町企画調整課の髙橋英夫係長は、てんやわんやから解放され、ホッとひと息ついた。そして、今、髙橋係長の頭の中を占めるのは「これからの湯沢をどうするか」だ。

湯沢町のリゾートマンション©Googleストリートビュー

 

 小さな町に押し寄せるスキー客も1シーズンで延べ500万人を超えるようになっていた。ピーク時の交通渋滞やスキー場の混雑、ゴミ問題など難題は次々と押し寄せる。『東京都湯沢町』には、リゾートマンションのブーム後をにらんだ数々の動きも紹介されている。地域主体の観光地をどうつくるか、量から質への観光政策、次世代に向けた人づくり…。ブームが落ち着いた時、いかにして地域として生きていくか、という手探り活動の報告である。

 しかし、結論から言えば、バブル崩壊はそんなの策も吹き飛ばした。暴風雨が逆流するかのような、崩壊が湯沢町を襲ったのだ。

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高田昌幸
 

ジャーナリスト、東京都市大学メディア情報学部教授(調査報道論)。

1960年生まれ。北海道新聞、高知新聞で記者を通算30年。北海道新聞時代の2004年、北海道警察の裏金問題取材で取材班代表として新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞などを受賞。

 
 
   
 

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