返還前の沖縄 米軍基地の核弾頭の撮影に初めて成功した新興新聞「TOKYO OBSERVER」の偉業

  1. 調査報道アーカイブズ

東京オブザーバー(1968年)

[ 調査報道アーカイブス No.50 ]

◆新興の新聞「TOKYO OBSERVER」のスクープ

 敗戦後、米軍に占領されていた沖縄が日本に返還されたのは、1972年のことだ。来年で「沖縄復帰50年」になる。

 この沖縄復帰をめぐって、1960年代末の日本では、議論が沸騰していた。眼目の1つは、沖縄に配備されている米軍基地やその核兵器がどうなるか、だった。当時はベトナム戦争の真っ最中であり、ベトナムを攻撃する米軍機などは沖縄から次々と出撃している。その状態を維持したまま、そして核兵器を残したまま、沖縄は日本に戻るのか。ところが、佐藤栄作内閣では、首相自らも外相らも言を濁し、核兵器が沖縄に存在するかどうかを言明しない。「核抜き・本土並み」の旗を振りながら、沖縄返還実現への道をひた走っていく。「核兵器は現に沖縄に配備されているのであり、それを維持したまま、沖縄は日本に戻ってくるのではないか」という疑念は解消されぬまま時は流れていた。

 そんなさなか、沖縄に配備されれていた各搭載の地対地巡航ミサイル「メースB」の存在を写真付きでスッパ抜いた記事がある。報道したのは「TOKYO OBSERVER(オブザーバー)」という週刊新聞だった。主宰していたのは、毎日新聞の外信部長だった大森実氏(故人)。大森氏はベトナム戦争下の北ベトナムに西側記者として初めて取材に入るなど、「国際事件記者」として一世を風靡した辣腕だった。「オブザーバー」は1967年2月に発刊され、1970年3月まで159号を出している。ベトナム反戦運動や学生運動が高まった1970年前後の“政治の季節”。それを背景にしながら、「オブザーバー」は10万部を超す部数を持ち、最盛期には15万部近くを誇った。

◆「これが核つき返還だ」

 「メースB」に関する記事が掲載されたのは、1968年11月24日付の1面だった。「これが核つき返還だ」という大きな横見出し。その下には、これも大きな写真が配置されている。沖縄に配備されていたミサイル基地の写真である。さらに「アジアをにらむメースB」「ついに爆発したB52」という見出しも並んでいる。「爆発したB52」とは、核兵器を搭載する米空軍の戦略爆撃機B52が嘉手納基地で大爆発事故を起したことを指す。

沖縄に配備されていた核兵器の写真を掲載した「オブザーバー」のスクープ

 

 1面の記事は騒然とする沖縄の様子を記しながら、続く2面で「メースB」の現地取材の様子を記している。

 沖縄駐留米軍の“3種の神器”はB52のほか、メースB、ポラリス原潜である。記者は(琉球政府の主席を選ぶ)選挙が終わったのち、基地沖縄の現実を取材するため、沖縄を歩き回った。

 記事によると、メースBは1961年に沖縄に持ち込まれ、沖縄本島に4つの基地があった。ホワイトビーチ、金武、読谷村残波岬、恩納の4空軍基地だ。4基地には8基ずつの発射台があり、それぞれに3発のメースBが配備されていた。計96発である。取材に当たった上田泰一氏(故人)は車を駆って、ホワイトビーチから残波岬を経て恩納基地へ向かう。石川岳を登ると、やがて木立の間にメースB基地が見えてきた。北京などアジアの要衝を全て射程に入れたミサイルがある。

 ……そのうち1基だけ、フタがおろされ、よく見ると、中に弾頭のようなものが見える。望遠レンズを出してファインダーをのぞくと、照明のもとで有翼ミサイル、メースBの弾頭が不気味な黒光りを跳ね返していた。
 頭をガーンとなぐられたような気がした。沖縄の現実をその“悪魔の兵器”に読み取ったのだ。日本には核ミサイルがある。私はそれをシカと見届けたのだ。カメラのピントを弾頭に合わせ、イキもつかずに、シャッターをきりまくった。

 沖縄の核ミサイルはすでに“常識”となっているが、その姿が国民の前に公表されたことはなかった。
 国民的反対を押し切って昨秋、渡米しジョンソン大統領と会談した佐藤首相さえ、その実在を知らなかったほどである(昨年12月の臨時国会での答弁から)。佐藤首相は65年、沖縄現地を訪れたうえで、沖縄問題を討議しにいったハズなのに、メースBの存在を知らなかったというのである!

オブザーバー紙の紙面

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高田昌幸
 

ジャーナリスト、東京都市大学メディア情報学部教授(調査報道論)。

1960年生まれ。北海道新聞、高知新聞で記者を通算30年。北海道新聞時代の2004年、北海道警察の裏金問題取材で取材班代表として新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞などを受賞。

 
 
   
 

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