返還前の沖縄 米軍基地の核弾頭の撮影に初めて成功した新興新聞「TOKYO OBSERVER」の偉業

  1. 調査報道アーカイブズ

◆新しい挑戦「オブザーバー紙」が残した調査報道の成果

 メースBの取材経緯はどうだったのか。

 当時の沖縄は日本に返還されておらず、米軍の施政下にあった。簡単に渡航もできない。取材した上田氏は同僚と沖縄行きのチャンスをうかがい、現地入りを果たす。米兵の統制がきつく、取材は思うように進まなかったが、偶然、現地に住む友人に再会し、彼の案内で基地を見に行くことになった。その様子は『大森実ものがたり』の中で、上田氏自身が「大スクープ・沖縄の核弾頭撮影」と題して記している。報道カメラマン志望だった若き上田氏は当時、数百人もの受験生を押しのけてオブザーバー紙に採用されたばかりだった。

 ……その夜、恩納村のメースBが時々、虫干ししているという情報を入手。旅行者の風を装って、現場に案内してもらい、核弾頭の撮影に成功した。(大森実)所長が「大スクープや」と言った弾頭だ。
 当時、佐藤栄作首相は「沖縄に核があるとは存じていない」と国会答弁で繰り返していたが、そのテレビ画面に私が撮影した写真と「沖縄恩納村の核弾頭 東京オブザーバー 上田泰一・前沖縄特派員撮影」というテロップが流れた。その1年後、沖縄各基地メースB4基は沖縄返還の象徴のように堂々と撤去された。沖縄には核がない、という日本政府が言明していたまさにその核と核基地が既成事実として撤去されたのだ。それが実現したのは「東京オブザーバー」の力が大きかったと言わざるを得ない。

恩納基地に配備されていたメースB(左)。変換後、基地は撤去された(右)=沖縄県のHPから

 

 上田氏の著ししている通り、「オブザーバー」は一時、それなりの影響力を持っていたようだ。各記者は、他の新聞・テレビの取材スタッフと同じように、永田町・霞が関界隈も闊歩。国会内で「東京オブザーバー」の腕章を巻いた記者が取材する写真も残されている。「東京オブザーバーです」と言えば、だいたい、どの現場でも取材に入れたと上田氏も書き残している。

 敏腕記者として名を馳せた大森実氏が創刊した「オブザーバー」は、当時のメディア界に吹いた新しい風だった。わずか3年で休刊したため、「オブザーバー」の存在を多くの人は忘れ去ったが、たとえ媒体がなくなったとしても、それが伝えた調査報道の価値そのものが消えるわけではない。

■参考URL
「TOKYO OBSERVER(オブザーバー)」の紙面一覧
単行本『大森実ものがたり』(大森実ものがたり編纂委員会編)
単行本『虫に書く』(大森実著)

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高田昌幸
 

ジャーナリスト、東京都市大学メディア情報学部教授(調査報道論)。

1960年生まれ。北海道新聞、高知新聞で記者を通算30年。北海道新聞時代の2004年、北海道警察の裏金問題取材で取材班代表として新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞などを受賞。

 
 
   
 

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