「ドヤ街」で労働者を支援する理由【下】 シリーズ・令和に生きる No.2 (本サイトのオリジナル)
横浜・寿町は、東京・山谷地区や大阪・釜ヶ崎と並ぶ三大「ドヤ街」だ。そこで日雇い労働者や路上生活者の労働相談、生活相談などに携わって35年。昭和から平成、令和にかけて、近藤昇さんがこの街で見続けた“日本の姿”とは。
◆労災がバレるから簡宿で寝てろ
バブルの全盛期、近藤さんらが扱う日雇い労働相談は年間100件以上を数えた。その大半は「賃金未払い」。次いで「労災」が多かった。
寿町に来た当初、私は日雇い仕事と労働相談の掛け持ちでした。多い時は、週5日は仕事に出てました。ある時、「組合の事務所に相談に行っても誰もいないじゃねぇか」と言われてから当番制で事務所にいるようになりましたが。
日雇いの未払い相談と言っても10万や20万ということはなくて、大半は1万とか2万。1万未満もあった。でも、その人にとっては死活問題なんです。やくざが経営してるってケースも多かったですから。バブル崩壊で仕事がなくなるとともに、日雇いの待遇も悪くなりました。「来週から日給下げるぞ」と言われて抗議しても、「仕事したい奴はいっぱいいる。だったら来なくていい」と言われる。仕方なく我慢してる人も多かったです。
労災事故には報告義務があるんですけど、報告したら下請け業者は元請けから切られてしまう。「事故ばかり起こしてるなら仕事はやれない」って。だから、下請けの社長は「宿で寝ててくれ。労災届は出さない代わりにカネは払うから」とけが人に言って、事故を隠す。でも、なかなか治らない人や、中には後遺症が出る人もいる。「一切これ以上は(お金を)要求しません」という念書を書いたけど、どうしたらいいんだろうって(いう相談もある)。それらを解決する取り組みもやってました。
◆外国人労働者と不払いの賃金を勝ち取る
バブル期の寿町には外国からの出稼ぎ労働者も多かった。寿日雇労働者組合を象徴する争議には外国人労働者が関係するものも少なくない。
当初はフィリピン人が多かったですね。日本で最初に外国人の出稼ぎ労働者が現れたマチですから、寿は。(1988年の)ソウル五輪が終わった後は、韓国経済の不況で韓国人の労働者が増えましたね。彼らからの相談も多かったです。代表的なものとして、日本人と韓国人を合わせて十数人が「実はカネがまったく払われないんだけど相談に乗ってくれないか」って来たんです。社長が系列の上の会社から工事代金を集金した後、東北に逃げちゃったらしい。日本人も韓国人たちも切羽詰まってました。
そこで系列のところに行ったんです。そしたら社長は「うちはカネはもう払ってるぞ」と。そうは言っても部屋代もないし、飯も食えないと訴えると、考えた末に「半分なら払う」って。さらに粘ると「休業補償は6割だから、6割払う」と言ってくれた。そこからは1%刻みの交渉で73%まで行った。みんなは100%払ってほしかっただろうけど、このあたりで妥結かなと。「申し訳ないけど組合の力はここまでだ」と謝りました。
翌日、組合の口座を半信半疑で確認すると系列の会社から500何十万か入金されてた。夕方には日本人と韓国人、みんなに集まってもらって全部渡して。そしたらそのあくる日、韓国人の世話役が「仲間内で集めた」と言って、「20万、組合にカンパするよ」と。うれしかったですね。それから見知らぬ韓国人がちょくちょく相談に来るようになりました。事務所のドアをノックして、「コンちゃんですか」って、私のことを。韓国人の中で、「不払いに遭ったら、あそこにコンちゃんがいるから訪ねろ」と広まっていたようです。
◆不払いは許さない。上場企業の住宅展示場を取り囲む
これは日本人に対する不払いのケースですが、2万5千円くらいの賃金争議で一部上場企業の住宅展示場を組合旗を立てて取り囲んだこともありました。その下請け業者がとんでもない会社で、「働いたのにカネもらえないって人がいる。払ってください」と交渉しても、社長は「帰れバカヤロー。なんだ日雇いが。警察呼ぶぞ」と。実際、警官を本当に呼んだんですよ。
そっちがそれならトコトンやってやるぞ、と思ってね。この会社の飯場を2回くらい包囲もしました。次に元請けの上場企業のモデルハウスに行って、ハンドマイクを手に「ここの下請け企業がぁー」と抗議活動もしました。上場企業の支店にも行って「あんたの会社は下請けへの教育が間違ってる。あの下請け業者はダメだよ」と。上場企業がその下請けとの取引を止めるまで続けました。
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