生まれたての声【中】 一番怖いものは“普通の人”

  1. オリジナル記事

◆手話は目で聞く言語だ

 夜7時より少し前、会が始まった。

 耳の聞こえない人は5人。それ以外は全員が健聴者だった。手話サークルは耳の聞こえない人同士の交流が目的だと思っていたが、どうやら違うらしい。この場所に健聴者がいるということは、彼らの近しい人の中に耳の聞こえない人がいるのだろうか。

 新年最初の集まりであったため、その日の活動は顔合わせの雑談がメインだった。石田さんの右手に座っている人から反時計回りに、年末年始に何をしていたかを話し始めた。

 会が始まった時から、私は違和感や疎外感のようなものを抱いていた。この気持ちは一体何なのだろう。それでも私は、それらの感情を周りの人に気づかれないようにしつつ、彼らの手振りや表情を必死に観察した。すると、彼らの手話からいくつかの単語を拾いとることができた。手助けになったのは口の形だ。

 後で聞いた話によれば、手話は手の動きを完璧におこなっても正確な意味は伝わらないらしい。手話を構成しているのは、身振り手振りと表情、そして「口話」と呼ばれる口の動きの3つ。それらを組み合わせて、言葉の調子や感情を表現する。われわれが声色で意図を伝えるように。例えば、右手で左胸と右胸を順番に触って表す「大丈夫」という手話がある。この単語ひとつ取ってみても、自信満々の表情で手を動かせば、心配には及ばないという堂々とした「大丈夫」になる。逆に首を傾げながら同じことをすると、それは相手を心配する「大丈夫?」の意味に変わる。

 手話の振りは、日本語話者における文字のようなものなのだろう。テキストで「大丈夫」と読んだだけでは、込められた意図や状況はわからない。声色や調子、長さを乗せることでやっと実用的な言葉になる。手話においての声色は表情と口話なのだ。

 口話は、言葉の理解のサポートもしているようだ。私は会の途中、「口の動きを大きくした方がいい」と何度も言われた。耳の聞こえない人たちは、相手の口元を一番に見ているらしい。口元の動きと手話の振りによって、完全な意味を理解する。透明なフェイスシールドを必要とする理由もそこにある。

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◆健聴者と何も変わらない

 とはいっても、私には彼らの話していることがさらさらわからない。自分一人のために通訳をお願いすることに気が引けて、いつ言い出そうかとタイミングを見計らっていると、私の左側に座っていたろう者の老人が私を指さしながら手話で何かを言っている。どうやら、手話の話せない自分を慮って、しっかり通訳をしてあげてほしいといっているようだ。私は石田さんの近くに椅子を動かし、同時通訳してもらえることになった。居心地の悪さを抱えていた私には、それがとてもうれしかった。それ以降、ろう者の話は石田さんの通訳によって、健聴者の話は本人に声を出してもらうことによって理解することができた。

 ろう者の話を聞いていくうちに、私はあることに気がついた。ろう者の人だけが見えている特別な世界というものは、実は存在しないのだ、という当たり前のことに。

 部屋へ最初に入ってきた小人帽子のろう者の女性は、年始に鎌倉へハイキングに行ったそうだ。自宅から山をひとつ越え、鎌倉の鶴岡八幡宮へお参りをした。たくさん歩いてとても疲れたが、それも含めて楽しかったと言っていた。別のろう者の女性は、久しぶりに実家へ帰ってきた娘家族に、おせち料理を振る舞ったと語った。また一人は、仕事がないから昼までゆっくり寝て、奥さんが作ったおせちを食べた。そしてまた一人は、息子と娘とお酒を飲みながらカニを食べた。20歳近くになっても娘のためにカニの身を食べやすくこしらえてあげたと語っていた。

 彼らが過ごした年末年始の時間は、健常者が過ごしたそれと何ら変わりがなかったのである。

◆障がい者のことば

 加えて私を驚かせたのは、彼らの私語だった。1人の健聴者が話している間、2人のろう者が小さく手話で会話をしていた。話の内容はわからないが、2人の雰囲気や表情は授業中に放課後の計画を立てる小学生のように見えた。その様子を見る限り、日本語と手話に大きな違いはなかった。私の中にあった手話のイメージとは大きく違う光景を見て、私はなぜか笑いそうになってしまった。そう、耳の聞こえる私たちと耳の聞こえない彼らは同じだったのである。年末年始は旅行先で温泉に入り、美味しいものを食べ、家族とゆっくり過ごし、初詣に行く。言葉にも大きな差はない。日本語も英語も手話も全て同じ、ただの言語なのだ。手話でもひそひそ話はする。悪口も言う。恋愛の話も戦争の話もできる。

 その時、私は単純な手話への憧れを感じていた。それは私が英語を話せる日本人をかっこいいと思うのと同じように、手話を話している彼らを、すごくかっこいいと思った。当たり前のことだが、ろう者も健聴者が感じている幸せを同じように感じている。ろう者にだけ見える世界があると思った時点で、私は何か勘違いをしていたのだ。自分の取材の出発点が大きな間違いだったと知り、不思議と私は喜んでいた。

 彼らの手話を観察していると、今まで見えなかったものが他にも見えてくる。

 例えば、手話を通してわかる彼らの性格。

 自分の右手にいる女性は、おしゃべりだ。手話のスピードがとても速く、石田さんの通訳がたびたび置いけぼりになった。彼女の話はしょっちゅう横道にそれて、最後にはお酒の話につながる。大振りでスピーディな手話といたずらっ子のような表情。それとは反対に、私の左手に座っている高齢男性は口数が少ない。彼は古くからある正しい手話を大事にしているようで、他の人の手振りを正す場面が何度もあった。それは若者の乱れた日本語を正そうとする、真面目な健聴老人の姿と同じであった。

 手話を話すことや、耳が聞こえないということは、その人の性格やパーソナリティと一切関係がない。第一言語が手話であり耳が聞こえないという特徴を持っているだけであって、人間の根幹の部分は違うはずがないのである。

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