沈没―寿和丸はなぜ沈んだか

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沈没―なぜ寿和丸は沈んだか (2021.2.24 SlowNews)

 2008年6月23日、朝。千葉県犬吠崎東方沖350キロ地点で、第58寿和丸はメインエンジンを止めて停泊を開始した。これから起きる大異変など、誰も予想することができない、いつもの海だった。――事故から12年。数々の疑惑に漁師たちが重い口を開き、衝撃の真実が明かされる。

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 千葉県犬吠埼の東方沖350キロメートル付近といえば、太平洋のただ中である。当然ながら周囲は海ばかりで、陸地はどこにも見えない。そんな洋上で巻き網漁船「第58寿和丸」は停泊していた。

 朝7時ごろから、1時間ほどカツオの群れを追尾したが、釣果は出ていない。そのうちに天候が悪くなり、漁を一時中断した。8時には「パラシュート・アンカー」を海中に広げて、停泊することになった。漁師たちはパラシュート・アンカーのことを「パラ・アンカー」と言ったり、それを使った停泊のことを「パラ泊」と言ったりする。パラ泊は荒天時の沖合で用いられる停泊方法だ。落下傘を水中で広げるようにして水の抵抗を使い、船首を風上に向ける。安全性は高いとされ、操船の基本でもある。

 このとき、第58寿和丸と船団を組む僚船もパラ・アンカーを使って停泊していた。

 船団が停泊を始めた頃は、ちょうど前線が通過していくところだった。海は次第にしけてくる。それでも、経験豊富な海の男たちは、大したしけとは感じなかったようだ。実際、30年の経験を持つ船員の豊田吉昭は「この程度なら(今日中に)また網をやるだろう」と思っていた。そこにパラ・アンカーを下す指示が出た。連続操業で疲れがたまっていたため、朝から休めることが豊田にはうれしかった。

 2008年6月23日朝。

 何の変哲もないような一日が、洋上でも始まっていた。第58寿和丸は9時頃、メインエンジンを止めて停泊を開始。20人の船員たちは、それぞれの持ち場で作業をしていた。想像もできない大異変が数時間後に起きようとは、誰も考えていない。

 その時間、乗組員の豊田と大道孝行はブリッジ前にいた。この場所は船体の中央にあり、船体を人体になぞらえて「胴ノ間」とも言う。そこで、漁網に取り付けられたワイヤーの修繕を新人2人に教えていた。

撮影:穐吉洋子

 大道は、高校を中退して16歳で漁師になった。最初の漁は石川県の北端、珠洲市蛸島町沖。獲れた大量のサバに驚き、思わず何匹いるか数えたという。それから魚を追って全国各地を回った。岩手県出身の大道にとって見知らぬ土地の港に入り、博多どんたくや京都祇園祭など地域色豊かな行事を見る楽しみもあった。東北新幹線や上越新幹線に自分の給料で乗れることは何よりもうれしかった。そんな時代から20年以上。既にベテランになり、若者に漁を教える立場になっている。

 「ごはんだよー」

 豊田たちは、司厨長の佐藤慶夫が船内マイクで呼びかけたことを鮮明に記憶している。食堂の左端には4人掛けと6人掛けのテーブル、棚には船員の名前が書かれたマグカップや湯飲み茶わん。壁には白い「シチズン」の時計が掛けてあった。その食堂で乗組員たちは入れ替わり立ち替わり、揚げ物中心の昼食を済ませた。午後は甲板下の船員室で、昼寝をしたり、テレビを見たり、思い思いの休息を楽しむはずだった。

 食事が一段落した午前11時半頃。気象庁は「南の風が強く、最大18メートルの風が吹く」という海上強風警報を発令した。その程度の気象には彼らは慣れている。

 「ホヤ買ってきて」

 午後1時頃、第58寿和丸の通信長・斎藤航は、船舶電話でそう口を開いた。相手は、水揚げのために宮城県の石巻港に入っていた運搬船の乗組員仲間だ。獲った魚を積み込み、船団と漁港との間を行ったり来たりする。その僚船の友人に向かい、「ホヤ」を頼んだのだ。自分たちもやがて陸に戻る。その際は、好物のホヤを肴にうまい酒を飲みたい。そんな思いがあったに違いない。何しろ、出漁から20日余りが経っている。

「第58寿和丸」の勇姿(提供:酢屋商店)

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伊澤理江
 

ジャーナリスト。

英国ウェストミンスター大学大学院ジャーナリズム学科修士課程修了。 新聞社・外資系PR会社などを経て、現在はネットメディア、新聞、ラジオ等で取材・執筆活動を行っている。フロントラインプレスが制作協力したTokyo FMの「TOKYO SLOW NEWS」の...

 
 
   
 

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