20年前の「想定外」 東海村JCO臨界事故の教訓は生かされたのか(2019・3・12 Yahoo!ニュース特集)
この写真の道をまっすぐ進むと、核燃料加工施設があったJCO東海事業所に突き当たる。1999年9月30日、茨城県東海村のこの施設で「臨界事故」が発生。日本で初めて、事故被ばくによる死者を2人出し、近隣住民を含めた667人が被ばくした。「想定外」の場所で起きた「想定外」の事故だった。あれから20年。事故後、何が変わり、何が変わらなかったのか。当時の村長や役場職員、何も知らず現場に駆けつけた救急隊長、未知の急性被ばく治療に挑んだ医師、そして住民……。その後、福島で原発事故も起きたが、臨界事故の教訓はどう生かされたのか。「原子力のまち」を歩き、関係者に尋ねた。
◆誰もイメージできなかった「臨界事故」
「私も被ばくしました」
東海村職員の川又則夫さん(48)は、臨界事故を鮮明に覚えている。当時は企画課の最年少だった。
昼休み中の12時20分ごろ。先輩職員らと入った洋食店で携帯に連絡が入った。
「JCOで事故があった。すぐ職場に戻れ」
ジェー・シー・オー?
それがどこにあり、何の施設か見当もつかなかった。1年ほど前に社名が変更されていたからだ。役場に戻ると、事故対応のため、5階に災害対策本部が立ち上がっていた。そういえば食事に出る前、「臨界」という言葉を役場内で耳にした。「おめでたいこと」という先入観があり、特に気にならなかったという。
「臨界」とは、核分裂が安定的に維持される状態を指す。原子力施設が順調に動いていることを意味し、当時は「おめでたいこと」として受け止められていた。実際、それまでは臨界事故など起きたこともない。
その少し前、東海村村長だった村上達也さん(75)は、栃木と茨城の県境にいた。会合に向かう途中、昼食のため蕎麦屋に入ったばかり。そこに助役から「臨界事故です」と電話が入る。災害対策本部を立ち上げること、防災無線で住民に屋内退避を促すこと。それを指示しながら、村上さんはまだ、事の重大性を認識できていなかったと振り返る。
「さほど大きなことにはなるまいという気持ちがあり、(公用車の)運転手に『あんまり慌てなくていいから落ち着いて帰ろう』と。誰も臨界事故がどのようなものか分からなかったんです」
「(東海村に入る)十文字の交差点に警察官が何人も立っていて、道を封鎖していた。ヘリコプターがバンバンバンバン飛んでいる。ものすごい緊張感がバッと走りました」
JCOの近くでは、白い防護服を着た警官らを目撃した。
午後1時35分、役場着。早速、専門家から手短に説明を受けた。臨界によって放出される中性子線とは何か、危険性はどうか——。中性子線は壁や防護服では遮断できないという。
午後2時過ぎ。JCOの社員2人が災害対策本部に飛び込んできた。現場から350メートルの範囲にマジックで線を引いた地図を持っている。顔は真っ青。彼らは言った。
「住民を避難させてほしい」
原子力事故で住民を避難させた前例はなく、村上さんはためらったという。
「(避難させたら)『原子力は怖いもの』という社会的な評価になり、原子力推進の妨げになるんではないか、と。村はパニックにもなる。(どう避難させるか)技術的なことも検討しなければいけない」
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