そのころ、茨城県は「屋内退避で十分」と判断していた。科学技術庁(現・文部科学省)は混乱し、担当者に電話もつながらない。
午後2時半ごろ。再びJCOの2人が現れ、早く避難させてくれと頼んだ。「おたくの社員はどうしているのか」と聞くと、JCO側は「敷地の端に避難した」と言う。村上さんは「(敗戦直前の旧満州の)関東軍みたいだな、(住民より先に)みんな逃げちゃって。俺んとこの住民のほうがはるかに(事故現場に)近いところにいる」と憤り、そして決断した。
「避難だ」
対策本部で村長の村上さんが声を上げると、50人ほどの職員が一斉に立ち上がった。住民の避難を最前線で担う「輸送班」である。前出の川又さんもその中にいた。
避難対象は約50世帯を数えた。職員は手分けして一軒ずつ訪ねては避難を要請していく。車で向かった川又さんらのチームは、何軒目かで老夫婦の家を訪ねた。妻はほぼ寝たきり。夫の体調も思わしくない。介護用の車を回すよう頼んでも、なかなか到着しない。1時間、2時間、3時間……。夕方、雨が激しく降った。ようやく到着した介護車に夫妻を乗せた時は暗くなっていた。
川又さんが被ばくしたのはこの避難要請に奔走していた時だ。介護車を待っていた地点は、JCOの核燃料加工施設から100メートルも離れていない。後の評価では、推定4.8ミリシーベルトの被ばく線量だったという。
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この記事は「20年前の『想定外』 東海村JCO臨界事故の教訓は生かされたのか」」の一部です。記事は2019年3月12日、Yahoo!ニュースオリジナル特集で公開されました。取材はフロントラインプレスの伊澤理江さん。「20年前の想定外」とは、のちに起きた福島第一原発の事故も「想定外」と言われたことを意識して見出しとしたものです。
記事はこのあと、被曝して亡くなった作業員2人を治療した東京大学医学部の元教授、事故現場に真っ先に飛び込んでいった当時の救急隊長らが語る「教訓」へと続きます。
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20年前の「想定外」 東海村JCO臨海事故の教訓は生かされたのか
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