『仁義なき戦い』の昭和の時代 暴力団追放に立ち上がった広島・地元紙の調査報道

  1. 調査報道アーカイブズ

中国新聞(1963年〜)

[ 調査報道アーカイブス No.79 ]

◆『仁義なき戦い』のモデル「第2次広島抗争」

 国際ジャーナリスト連盟(IFJ)が2021年12月末に発表した数字によると、同年中に世界で殺害された記者は計45人だった。過去の記録では最も少ない部類に入る。時事通信の記事によれば、IFJは「減少は歓迎するが、記者への暴力は続いており、小さな癒やしだ」と指摘したという。犠牲者はアフガニスタンの9人が最多で、メキシコで8人、インドで4人などと続いた。

 世界では、記者が時に命を奪われる。日本でも、1987年の朝日新聞阪神支局襲撃事件など記者が命を落としたり、暴力を加えられたりした例がある。しかし、1963年から65年にかけて広島の中国新聞が展開した「暴力追放キャンペーン」を振り返ると、記者がここまで徹底して暴力と対峙し、文字通り命の危険と隣合わせで長期間の取材を継続した例はないと思われる。一連の報道は1965年の菊池寛賞を受賞し、のちに『ある勇気の記録 凶器の下の取材ノート』にまとめられた。

 ことの発端は1963年4月17日、統一地方選の投票日だった。深夜11時30分ごろ、呉市の繁華街の路上で、暴力団幹部がピストルで射殺された。これをきっかけに呉市と広島市を中心に対立する暴力団の抗争が激化し、死者16人、負傷者20数人を出す。東映の映画『仁義なき戦い』のモデルにもなった暴力団の「第2次広島抗争」である。ピストルによる銃撃戦や無関係な市民が巻き添えになる事件も多発し、市民を恐怖に陥れた。

中国新聞による記事の数々(『ある勇気の記録 凶器の下の取材ノート』から)

◆“お礼参り”を恐れて市民は沈黙

 こうした事態を前に、中国新聞は「暴力追放キャンペーン」を始めるのである。しかも紙面では一歩も引かなかった。キャンペーン当初の街の雰囲気はどうだったか。呉の射殺事件が広島市に飛び火した直後の様子を、『ある勇気の記録』は書いている(一部表記は読みやすいように改めた)。

 市民は10年前、いやもっと前からの暴力団への恐怖からかーー捜査に協力する者は滅多にいなかった。恐怖と憤怒との奇妙な感情の中で、お礼参りを恐れる気持ちは、呉の場合と少しも違っていなかった。警察はもちろん、事件記者も、暴力団関係の事件では、必ずこの扱いに突き当たるのだ。お礼参りの不安とともに、関わり合いになりたくないという気持ちが、支配するからであろうか。だからと言って、彼らが恐ろしいピストルを持ち歩いている現実を容認できない。

 取材班は記事を書き続けた。方針は(1)暴力団に関する事件はどんな小さなものでも記事にする(2)犯罪に直接結びつかないものでも暴力団絡みの出来事は極力記事にするーの2つである。どんな小さな出来事も社会に晒す。それだけである。極めてシンプルだ。

 この方針に沿って、記者たちは現場という現場に取材に出向いた。記者が気色ばんだ暴力団員に囲まれたり、カメラマンが「フィルムを出せ」と脅されたりする事態も頻発した。人手が足りず、やむなく1人で取材に向かう記者もいた。

暴力団の抗争事件を報じる中国新聞(『ある勇気の記録 凶器の下の取材ノート』から)

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高田昌幸
 

ジャーナリスト、東京都市大学メディア情報学部教授(調査報道論)。

1960年生まれ。北海道新聞、高知新聞で記者を通算30年。北海道新聞時代の2004年、北海道警察の裏金問題取材で取材班代表として新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞などを受賞。

 
 
   
 

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