「子育て困難社会」十分な文字量で得た圧倒的共感

  1. 調査報道アーカイブス

「子育て困難社会」 伊澤理江(2019年11月)

 

[ 調査報道アーカイブス No.15 ]

 子育てをめぐる家庭の「危機」は、全国のあちこちにあり、そして「私ごと」の世界に埋もれたままになっている。どうして母親たちにとってつらい出来事が起きるのか。なくならないのか。フロントラインプレスのメンバー伊澤理江氏は、その素朴な疑問を解くために、多くの母親たちに会い、カウンセラーなどの専門家も訪ね歩いた。4回シリーズ「子育て困難社会 母親たちの現実」は、その記録である。

 

 このシリーズは独自取材記事を集めたYahoo!ニュース特集に掲載された。各回とも6000文字前後のボリューム。新聞記事よりはるかに多い文字数であるだけでなく、ネット記事としてもあまり見かけない長さだ。しかし、読み手が飽きることはない。ディテールがしっかり描かれ、読み手は「自分だったら…」の思いを重ね合わせ、引き込まれるだろう。

 初回は、兵庫県に住む30代女性の話から始まる。夫は転勤族。会社の都合で見知らぬ土地に赴任し、赤ちゃんを抱えたまま苦しんでいくストーリーだ。多くの人が経験済みの話かもしれない。多くの人がこれから直面する話かもしれない。そうした、ある種の日常風景を社会問題として昇華させる試みだ。

 冒頭を少し、紹介しよう。

◆蒸し暑い日、赤ちゃんを投げつけた

 蒸し暑い、曇り空の8月だった。女性は「もう、いい加減にして!」と叫びながら、生後6カ月の息子を布団に投げつけた。
息子は一度泣きだすと泣きやまない。その日も昼頃から泣き始めた。抱っこをしても、授乳をしても、おむつを替えても泣きやまない。2時間以上経過した、その時。1メートルほどの高さから布団に投げつけると、息子は一瞬、静かになった。そして、「ギャ――――」とさらに大きな声で泣きだした。
このままでは命を奪ってしまうかもしれないと思い、女性は児童相談所に電話をかけた。男性の職員が出た。泣きやまない子どもを布団に投げつけたことを泣きながら伝えると、外傷の有無などを聞かれた。外傷はない。するとその職員は「児童館へ行ったり、保健師に相談したりしてみて」と言う。淡々とした口ぶり。短時間で終わったその通話を女性はよく覚えているという。
「泣きやんだタイミングを見計らって、やっとの思いで電話したんです。動転していて、誰かに自分を止めてもらいたい、と。それをうまく伝えることができなくて」

この女性は大学を卒業後、東京で就職し、外資系企業などで仕事を続けていた。企業名や仕事の内容を明かせば、典型的な「キャリア女性」に映るだろう。夫の転勤を機に30代半ばで退職。「わが子の投げつけ事件」は、初めての土地に移って1年足らずの時だった。近くに家族や親族、頼れる友人はいない。メーカー勤務の夫は朝6時に家を出て、ほとんどの日は夜12時過ぎまで帰ってこない。残業に次ぐ残業で、週末もよく仕事に出た。

 それにしても、息子はよく泣いた。泣きだすと、何時間も止まらない。周りの目が気になり、バスで児童館に出かけることもできなかった。
「家の近くで過ごそうにも真夏のお散歩は1時間が限界で……。私の母は、電車とかで小さい子が泣いていると、『親のしつけがなってない』とよく言っていました。 泣かせ続けるのは、悪い親、しつけのできていない親だ、と。自分もそう思う節があって。泣き声を聞いているだけでつらい。早く泣きやませたかった」
丸一日、夫以外の大人と話すことのない日が続いていた。

  「一人になりたくて、託児所を1、2回使ったんです。すると、顔見知りのママから『預けるなんてかわいそう。罪悪感なかったの?』と言われて。預けないと歯医者にも行けないと説明したら、『へぇー、そうなんだ。すごいね。私にはできない』と。で、思ったんです。預けるのって悪いことなんだ、そうか、自分は母親失格だ、と。託児所も利用できなくなりました。今だったら、あんなの聞き流せると思います。でも、当時は違いました。育児ノイローゼだったと思う。何が正しくて何が間違っているのか、わけが分からなかった」
布団に投げつけた後も、子どもをぶったり突き飛ばしたりした。とにかく泣く。泣いて泣いて泣きやまない。夫が帰宅すると、「今日もぶってしまった、大声をあげてしまった」と言い、今度は自分がわあわあと泣いた。
女性の夫は「わが子の投げつけ事件」をこう振り返る。

「早く帰りたいのに仕事量が多く帰ってあげられなくて。早く帰らないと妻が疲弊していく。かといって、この先も長く働く会社でいい加減な仕事もできない。それに、こういう苦しみを乗り越えてやってきているでしょ? そこそこ給料ももらえているし。(早く帰ってあげたいと思う)自分が甘いのかな、って」

◆ネットで読まれる社会課題の記事とは

 この初回には「見知らぬ土地への転勤と激務で帰らぬ夫 『アウェイ育児』に苦しむ妻」というタイトルが付されている。シリーズはその後、次のように3回続いた。

・「育児は女性のもの」が覆い隠す社会の歪み―見え始めた「母性愛神話」の限界
・母親が直面する孤立子育て―全てを抱え込んで破綻、「妻の孤独」の泥沼
・ワンオペ育児の中で「こうでなきゃ」が苦しめる “理想の母親像”の呪縛

 各回のタイトルを並べて見ると、小欄でも取り上げた「日本の幸福」シリーズの「妻たちの思秋期」を思い起こす。共同通信社の斎藤茂男氏による作品は、1980年代の妻たちを通じて、超企業社会の歪みを描いた。「子育て困難社会」シリーズも、子育てに苦闘する母親たちの姿を通じて、経済最優先社会がもたらした歪みを浮き彫りにしようとした。少子高齢化が進む中、子育てや女性の社会的格差は大きな問題だ。

 このシリーズは多くのネットユーザーに読まれ、SNS上でも大きな反響を呼んだ。十分な分量とディテールをしっかり書く臨場感。小さなファクトを積み重ねることで、ユーザーたちは「他人ごと」ではなく、「自分ごと」として読んだに違いない。

 十分な分量と現場感、丁寧な記述。読み手の共感を得ながら社会問題を提起していくには、どうしたらいいか。この連載は、インターネット上でのルポルタージュの見せ方についても一つの解を示しているように思う。

■参考URL
見知らぬ土地への転勤と激務で帰らぬ夫 「アウェイ育児」に苦しむ妻(Yahoo!Japanニュース)
「育児は女性のもの」が覆い隠す社会の歪み――見え始めた「母性愛神話」の限界(Yahoo!Japanニュース)
母親が直面する孤立子育て……全てを抱え込んで破綻、「妻の孤独」の泥沼(Yahoo!Japanニュース)
ワンオペ育児の中で「こうでなきゃ」が苦しめる “理想の母親像”の呪縛(Yahoo!Japanニュース)

高田昌幸
 

ジャーナリスト、東京都市大学メディア情報学部教授(調査報道論)。

1960年生まれ。北海道新聞、高知新聞で記者を通算30年。北海道新聞時代の2004年、北海道警察の裏金問題取材で取材班代表として新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞などを受賞。

【主...
 

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