東京新聞・片山夏子記者(2011年〜)
[ 調査報道アーカイブス No.84 ]
◆とにかく作業員に会わなければ、何も始まらない
あと2カ月で今年も「3.11」がやってくる。東日本大震災の巨大な揺れと途方もない大津波、そして原発事故。東北の地はまだ癒えていない。全国に散らばった原発避難者たちの多くも、しんどい思いを抱えたままだ。そして、東京電力福島第一原発の事故現場では、今現在も放射能との果てしなき戦いが続いている。
原発事故後、新聞やテレビ、雑誌、ネットなどあらゆるメディアが原発事故を伝えた。事故原因に迫る大きな調査報道スクープもあった。そうした一群の中で、2011年8月から随時掲載が続く東京新聞の『ふくしま原発作業員日誌』は、期間の長さといい、ひたすら作業員の日常を追う手法といい、他の追随を許さない。取材を担うのは、片山夏子記者である。掲載は今も続いているが、2019年10月までの記事をまとめ、加筆した『ふくしま原発作業員日誌 イチエフの真実 9年間の記録』によると、片山記者の長きにわたる取材は、原発事故の起きた年の7月、東京社会部への異動辞令を受け、原発担当を命じられたところから始まった。キャップに「福島第一原発でどんな人が働いているのか。原発作業員の横顔がわかるように取材してほしい」と指示されたのである。
片山記者は大いに戸惑った。
事故当初、多くの作業員が宿泊していたいわき市には、すでにたくさんの報道関係者が詰めかけていて、フリーランス記者の生々しい福島第一原発の潜入ルポも出ていた。このうえ、何を伝えればいいのだろう。取材方法も切り口も定まらなかったが、とにかく作業員に会わなければ何も始まらない。ほとんど取材先のあてもないまま、原発から約40キロ離れたいわき市に向かった。
上野発のスーパーひたちに乗って2時間40分。作業員について考えをめぐらせた。事故当初、「日当40万円」などの高額な賃金で作業員の募集があったと報じられたが、実際はどうなのか。 原発から20キロの「Jヴィレッジ」で防護服や顔全体を覆う防護マスクを装着するというが、どう身につけるのか。そこから原発まで、防護服2枚にかっぱを重ね、全面マスクをつけた重装備のまま車で移動し、作業中はもちろん、作業を終えて帰ってくるときも重装備のままで、息苦しくないのか。ひとたび現場に入れば、全面マスクを外して水を飲むこともマスク内の汗を拭くこともできないというが、熱中症対策はなされているのか。何よりも水素爆発が何度も発生し、他界被ばくをする危険な場所で、命を賭してまで働くのはなぜなのか。
そうした湧き出る疑問を一つずつ解きほぐそうと、片山記者はひたすら作業員に会い続ける。ふらりとやってきた記者に、いきなり話してくれる者などいない。作業員に会って腰を落ち着けて話を聞くため、片山記者は文字通り歩き回った。ホテル、旅館、飲み屋、駅前、コンビニ、パチンコ屋…。それを繰り返しながら、決して声高ではない作業員たちの肉声を刻み続けた。それも決して声高にではなく。「こちら特報部」という見開き特集面の一角で、各回600〜700字ほど。決して大きな扱いではない。しかし、片山記者が聞き手となり、その枠内で語られる作業員の一人称言葉の、何と重厚なことか。
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