小林弘忠氏(2006年)
[ 調査報道アーカイブス No.47 ]
◆敗戦の5日前、福岡市の油山で米兵8人を斬首
アジア太平洋戦争に敗れた日本は戦後、戦勝国による「戦争裁判」を受ける立場になった。このうち、日本で行われた裁判は2つある。東条英機ら平和に対する罪を問われたA級戦犯の「東京裁判」、および、通常の戦争犯罪や人道に対する罪に問われたB・C級戦犯の「横浜裁判」だ。BC級戦犯は主に捕虜の殺害や虐待などを実行した者が対象だ。当然、下士官や一兵卒が多数含まれており、上官の命令に従っただけの元日本兵が次々と死刑や懲役刑の有罪となった。
BC級戦犯が背負うことになった理不尽さ。それを問うノンフィクションや映像作品は、かつて数多く社会に出た。戦後70年余り。戦争の記憶が遠のくにつれ、BC級戦犯が直面した苦悩もその作品群も、多くは忘れ去られた。しかし、それらを見つめ直すと、当時問われたものは現代でも変わらず大きな問いとして残っていることに気づく。今回はそんな作品群から『逃亡〜「油山事件」戦犯告白録』を取り上げたい。
油山事件が起きたのは敗戦の直前、1945年8月10日である。長崎に原子爆弾が投下された翌日だ。福岡市の西部軍管区司令部には当時、墜落した米軍機の搭乗員の捕虜がいた。そのうち8人が油山で斬首などの方法で“処刑”されたのだ。実行犯の1人だった見習士官の左田野修さん(故人)は、当時23歳。事件のおよそ1カ月前に司令部に配属されたばかりだった。後に戦犯として巣鴨プリズンに収監された左田野さんは、事件前後の様子や収監中の日々を詳細な記録に残している。『逃亡』はそれに基づいて書かれた。
◆背中に上官や将校らの視線を浴び、刀を振り下ろした
事件のあった日、左田野さんは上官の指示でトラックに乗って油山へ行く。現場に着いて初めて、米兵の処刑を行うことを知る。大きな穴が掘られ、手錠と目隠し姿の米兵が穴の縁に連行されてきた。処刑、斬首、8名……。そんな言葉が聞こえてきた後、上官は言った。
「志望者はおるか。われと思う者は一歩前に進み出て名乗れ」
兵の誰からも声が出ない。斬首することの恐怖が周囲を取り囲んでいる。「いないか。よし、それでは指名する。指名された者はこちらに集まれ」。やがて、上官が左田野さんの前で歩みを止めた。
「左田野、おまえも斬れ」
そのときの様子や心情を左田野さんは手記にこう書いている。(一部仮名遣い等は現代風に改めた)
一度も刀を使った事も、試し斬りした事もない二十三歳の私に、そうしてそんな事ができるであろうか。自信はまったくなかった。
いくら若くても未経験でも、これがもし、野戦で私を襲ってくる敵ならば防御の本能で斬ることも出来るかもしれぬが、おとなしく死を待っている搭乗員を斬るということはかわいそうで、内心嫌であった。命令に対しては「ハイ」と返事したが、この時から不安や恐怖心や哀感などが一時に起こって身体がふるえ始め、抑えようとしても止まらなかった。
順番に処刑者が友森大佐に敬礼して処刑を終えて行った。四番目の私に「次」と命じられたので、友森大佐に敬礼し、穴の前に座らされている搭乗員の後ろに立った。未だに身体のふるえは止まらなかったし、戦争という条件を除いては、何ら憎む所ない人をなぜ斬らねばならぬのか、戦争の罪深さを呪った。しかし私は背中に上官や将校の注いでいる視線を感じ、のっぴきならぬ気持ちに追い込まれた。心では「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、無我夢中で刀を振り下ろした。
左田野さんが使った日本刀は「小宮四郎国光」銘だったという。手記では、何の経験もない者がなぜ一刀で首を斬れたのかについて、それは刀のせいであると書かれている。そして、夢でも見ているような気持ちで刀を水で洗い、大佐に敬礼して列に戻った。
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