京都新聞(2015年)
[ 調査報道アーカイブス No.90 ]
◆戦争報道で切り捨ててきたもの
ウクライナ情勢が緊迫している。東アジアでも、北朝鮮がミサイルを飛ばし、中国の台湾侵攻も取り沙汰される。私たちが悲劇を繰り返さないためには、戦争の歴史を知らなければならない。しかし、1941年の太平洋戦争開戦時に15歳だった少年も今や95歳になる。当時の体験者を探し出すのは年々難しくなっている。戦時中あるいは戦後の記憶を記録し、受け継いでいくにはどうすればいいのか。今から7年前、京都新聞が戦後70年の節目に取り組んだ年間連載企画「時を渡る舟」(全7部)は、そうした問いに対してさまざまな角度から向き合った。取材の過程で、記者がぶつかった壁についてもあえて記事にすることで、記憶の継承を阻むものが一体何なのかを可視化している。
(トップのモノクロ写真は「雲海の上を飛ぶ旧日本海軍の九七式艦上攻撃機」=海軍第十四期遺族会提供)
連載は、2015年の元旦から大みそかまで続いた。基本的に朝刊の1面から社会面などに続く形で展開し、二つの面を合わせるとかなりボリュームがある。特に読ませるのが第2部(6回)の「追憶廃棄社会」だ。3月28日朝刊の初回は、かつて、少年飛行兵だったという85歳の男性を取り上げている。取材依頼を受け、記者は京都市内の自宅を訪ねるが、男性は認知症とみられ、話があちこちに飛んで要領を得ない。戦闘機のパイロットとしてB29と交戦したというが、年齢的にも記者は疑問を抱く。普通は、ここで取材をあきらめてもおかしくない。だが、1面の記事は次のように違う展開を見せる。
4時間半。相づちを打つのに疲れた。記事にするのは難しい-そう判断して取材を打ち切り、礼を言って背を向けると、「元少年兵」が大声を上げた。
「話を聞いてくださってありがとうございました」。頬を伝う涙。はっとした。
会話の細部が少しかみ合わないだけで、記憶や証言能力のすべてを否定し、切り捨てていなかったか。伝えたい思いの核心に自分は本当に耳を傾けようとしただろうか。
「誰も話を聞いてくれませんでしたので、うれしくて」。たまに訪れる医師以外、来客はないそうだ。老いの中で、「おかしいと思われてますけど」と、取り合ってもらえない孤絶。
「元少年兵」が記者に託そうとした戦争への思いと歴史に向き合うため、語りを資料で徹底的に裏付けることに決めた。ただにっこり傾聴し、その場を終わらせるのではなく。
記者は取材を進める。すると、戦友の存在など男性の証言を裏付ける事実が見えてくる。一方で、解けない謎も残った。男性は、自分が戦闘機「飛燕」で出撃に向かう場面という写真を見せてくれた。しかし収録された「日本陸軍機写真集」によると、撮影場所は東京都の「調布基地」。戦時中は岐阜県にいたという男性の証言と食い違う。連載は、こうした調査の過程や本人とのやり取りを記すことで、孤独な高齢者の現状も浮き彫りにする。社会面の記事は、こう締めくくられている。
飛燕の写真への疑問は解けていない。ある人の人生の「物語」をただ傾聴し肯定することでは歴史や対話にならず、「物語」の否定は人を傷つける可能性をはらむ。ためらい、口ごもってしまう。「遺族は整備兵だったと記憶されてます」と水を向ける。「前も言いましたように、整備兵でなく飛行兵です」。涙があふれる。「肩をぽーんとたたかれ、『おめでとう、4カ月後やぞ』と。それでおしまいやったです」
上官から4カ月後の特攻を示唆されたと伝えたいのだろう。次の言葉を待つ。「訓練中の時です。これで俺もどうにか天皇陛下の役に立てる、日本のみなさんの役に立てるって思いました。それがついつい敗戦になって、今まで生きさしてもらって」。肩をたたかれたのは45年8月、玉音放送の前だったそうだ。
ベッド上の携帯電話からメロディーが流れてきた。飛行機乗りの悲哀を歌ったダンチョネ節だ。「目覚まし時計の代わりです」。特攻隊節と般若心経も鳴るように設定されている。訪れるたび、元少年兵は4時間、5時間かけて語り続ける。同じ所を回り、行き来る言葉の海。
その深い水底には、確かに歴史が刻まれていた。
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