日本で「北朝鮮政府」を訴える――「地上の楽園」に騙された脱北者の闘い

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日本で「北朝鮮政府」を訴える――「地上の楽園」に騙された脱北者の闘い(2018・11・14 Yahoo!ニュース特集)

 北朝鮮政府を被告とする訴状が2018年8月、東京地方裁判所に提出された。被告代表者として「国務委員会委員長 金正恩」と記されている。北朝鮮の最高権力者を相手取った訴えを起こしたのは、日本に住む5人の脱北者たちだ。1959年に始まり、84年まで続いた北朝鮮への「帰国事業」では、9万人以上の在日朝鮮人や日本人が北朝鮮に渡った。原告たちもそうやって北朝鮮に行き、その後、日本に逃れた。「地上の楽園」という大宣伝、日本政府も関わった国家事業、そして現地では極度の貧困や飢え、相互監視……。北朝鮮政府に総額5億円の損害賠償を求める裁判では、いったい何が問われるのか。帰国事業の開始から来年で60年。その歴史はまだ終わっていない。

1959年12月、新潟港を出港する「帰国事業」の第1次帰国船。2日後、北朝鮮の清津港に到着した(提供写真)

◆騙され、泥棒して食いつないだ

 大阪府下の小さなアパートに齋藤博子さん(77)を訪ねた。えんじ色の上着が似合っている。丸縁の眼鏡。手にはいくつものしわがある。
今回の訴訟では、男性1人、女性4人の計5人が原告になっている。中には北朝鮮に家族を残したままの人もいる。齋藤さんもその1人で、初めて北朝鮮を目にしたときのことをはっきりと覚えているという。
「港に出迎えに来ていた人たちを船のデッキから見た瞬間、『騙された』って思いました」
齋藤さんは1961年、20歳のときに帰国事業に参加した。夫は在日朝鮮人。齋藤さんは「日本人妻」であり、夫と子ども、夫の家族など10人で一緒に北朝鮮に渡った。

 帰国事業は、赤十字国際委員会の協力で1959年8月に日朝両赤十字が締結した協定に基づいて始まった。当時の岸信介内閣も協定締結の半年前、この事業の実施を閣議了解。北朝鮮については、大手新聞を中心に「バラ色」「地上の楽園」と盛んに宣伝されていた。

帰国事業の記念碑。新潟港近くにある(撮影:木野龍逸)

 新潟港から北朝鮮の清津(チョンジン)港に着いた齋藤さんは、そこで初めて現実に気付いたという。
「服装がみんな、みすぼらしいんです。小さい子どもは、上は着てるけど、下は丸裸。デッキは大騒ぎになりました。泣く人や大声で『下りない』って叫ぶ人もいて……。そこへ偉い人が来て『とにかく一回下りて話をしましょう』と。それで体育館のような所に入ったら、外からカギが掛けられました」
齋藤さんたちはその1カ月後、北朝鮮側の決定で中国国境に近い山(ヘサン)に住むことになった。夫と長女の3人で暮らす部屋はアパートの4階。8畳間が一つで、台所に水の設備もない。水は川で汲んで部屋まで運び、排水は外に捨てに行く。配給はコメと小麦粉が1対9の割合だった。
「配給に肉? あるわけないでしょ。小麦粉には重曹を混ぜてパンを焼いたり、トックギ(すいとんのような料理)にしたり。味付けは、最初のうちは塩だけでした。味噌や醤油が出てきたのは何年かしてからです」

 夫は82年ごろに結核で倒れ、93年に亡くなった。食糧事情が極端に悪くなった90年代半ばからは、巻きずしを作って市場で売ったり、銅線を闇で売ったりして食いつないだ。コメや銅線は盗んだという。赤ん坊の死体の腹の中に銅線を隠していた母親を見たこともあった。
「食べることで精いっぱい。他のことを考えられる状態じゃなかった。桜もあったんですけど、きれいだなって思ったこと、ないもん」

 脱北は2001年だった。北朝鮮へ渡ってから、ちょうど40年が過ぎていた。子ども6人のうち、1人は行方不明、1人は脱北、1人は今も北朝鮮にいる。残る3人は既に亡くなった。
「帰国事業は私だけでなく、参加した全員の人生を変えてしまいました。もし北朝鮮に行っていなかったら? 子どもたちはあんな苦労をしてなかったと思います」

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木野龍逸
 

フリーランスライター。

1990年代からクルマの環境・エネルギー問題について取材し、日経トレンディやカーグラフィックなどに寄稿。 原発事故発生後は、オンサイト/オフサイト両面から事故後の影響を追いかけているほか、現在はネット媒体や雑誌などで幅広く社会問題をカバーしている。  

 
   
 

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