「ドヤ街」で労働者を支援する理由【上】 寿日雇労働者組合 近藤昇さん(73)

  1. オリジナル記事

◆バブル崩壊 「炊き出しを28年もやるなんて思ってもなかった」

 バブル崩壊以降、寿の平均年齢は急速に上がっていくわけです。寿だけが寄せ場ではありませんので、山谷に行ったり釜(大阪の釜ヶ崎)に行ったりした人もいたようです。結局、誰も仕事に就けなくなっていく中で、どうにもならなくなった人は路上に行っちゃう。行かざるを得なくなる。バブル崩壊とその後の長期不況、それと、寿の高齢化は同時進行したんですね。

 寿町での炊き出しは1993年12月1日に始まった。バブル経済が崩壊して間もなくのころだ。生活保護受給者、路上生活者を問わず、毎週金曜日、週1回の雑炊を楽しみしている人は多い。

 バブル経済の崩壊によって、すぐみんなが路上に出るわけではなく、こらえ切れなくなった人が出るわけです。その頃はどこの公園にもどこの河川敷にも、人が寝てる光景があふれてました。こちらも「仕事よこせ闘争」というのをやってましたけど、大不況だから行政にいくら言っても仕事は出てこないんです。そうしてるときに、老人クラブの会長から「黙って見ていられないよ」と炊き出しの話が持ち上がるんです。それはいい考えだ、と。みんなで集まって「寿炊き出しの会」をやることになったわけです。

炊き出しの列に並ぶ人たち=寿町(撮影:本間誠也)

 もう28年になりますね。炊き出しなんてものは緊急対応ですから、こんなことずっとやるなんて思ってなかった。景気が回復するとかね、仕事があるようになれば、必要なくなるんです。けど、そんな時代はついぞ訪れなかった。炊き出しというのは、大災害などの時の緊急時の外部からの食糧支援なんです。あくまで緊急時のものなんですけど、寿にとっては災害級の不況が慢性化したというか。結局、今日の寝床がない、今日の飯がないっていう人たちがずっと増えていったということなんですよね。「きょうはいっぱい雑炊、余っちゃったね」ということが続くようなことがあれば止めることも可能だったんですけども……今日の寝床、今日の食事がいつまでも解決できない。生活保護の受給基準を大幅に緩和するとか、寝床のない人のための寮みたいなのがあれば大丈夫なんですけども。

 横浜市は一時期、寿の路上の人たちに宿泊券とパン券を支給してたんです。それを求める人たちが中区役所をぐるっとり巻いていた。その券があれば簡易宿泊所に1泊できて、700円分くらいの買い物もできた。今晩の寝る場所と飯を確保して何とか頑張って仕事を見つけたい、っていう人の助けになっていたんです。今はなくなっちゃいましたけどね。

寿町2丁目の信号(撮影:本間誠也)

◆「なんで怠け者に飯を」と言うけれど

 コロナ禍の前と比べて、炊き出しに並ぶ人の数は、大きく変わっていないという。

 コロナで急に増えたということはないんです。(毎月1回の)生活保護費が出てから間もない1週目が350食、月の終わりの4週目が700食近く。このパターンはあまり変わってないです。コロナで「見たことのない人がいるな」ということはあります。炊き出しの開始を知らせるため、ハンドマイクを握っていると、「炊き出しの場所はどこですか」と聞かれることもしばしばです。総体の数は変わらないんですけど、新しい人たちがその中で増えている。コロナ以降、寿に新たに住み始めた人も結構います。

 炊き出しを始めたころ、そんな活動は当時あまりなかったですから、「なんで怠け者に飯を食わせるんだ」と批判されましたよ。「もっと怠けるじゃないかと」と。昨年の春、コロナが流行し始めたころも、「何でこんなことやってるんだ」「密の状態ができる」と強硬に中止するよう言ってくる人がいましたね。「みんな、飯を食えないからだよ」と説明はします。感染対策にも気を配っている、と。なかなか理解はしてくれません。始めたころも今も、「仕事なんていくらでもある。何でこんなことを」と言ってくる。自分がたまたま仕事を続けていられると、要するに見下しちゃうんですよね。「俺なんか見てみろ。ちゃんと働いているぞ」と。でも。その人だって雇い主の都合でいつ仕事を失うかもしれない。その時に蓄えがなくて次の仕事が見つからなかったらどうするのか。

炊き出しを求めて集まった人たち=寿町(撮影:本間誠也)

 

=つづく  「ドヤ街」で労働者を支援する理由【下】

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本間誠也
 

ジャーナリスト、フリー記者。

新潟県生まれ。北海道新聞記者を経て、フリー記者に。

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