これらの取材の端緒になったのは、1本の電話だった。
終戦記念日だったこの年の8月15日。午前10時ごろ、当時は東京・有楽町に本社があった朝日新聞の社会部で、電話は鳴った。宿直明けの記者がアイスコーヒーを片手に受話器を上げる。「はい、社会部です」と。すると、受話器の向こう側で「私、鉄建公団の職員ですが…」という声に続いて、内部告発が語られた。
「鉄建公団で組織的に大規模なカラ出張が行われているのです」「今度、会計検査院の定期検査で旅費も調べられるというので、現在、旅費関係の文書を全国の建設局、支社で改ざんする作業を始めました」「事業経費である測量調査費を旅費に流用、それをカラ出張の財源にあてていました…」
勤務先からの電話だったのか。相手は早く切りたがり、電話は20分ほどで終わった。相手の名前も所属も分からない。じっくり話をするため、先方に自宅の電話は伝えたが、記者から連絡する方法はない。詳細を知るためには、電話を待つしかなかった。すると、夜になって自宅の電話が鳴った。そして取材は本格化していく。
その後の取材プロセスは朝日新聞社会部の手による「公費天国 告発キャンペーンの舞台裏」に詳しい。取材記者と取材相手のやりとりが克明に記録され、なかなかスリリングだ。
取材の糸口を手繰り寄せた記者はその後、電話の相手と接触し、改ざんの前と後の旅行命令(出張命令)簿、出勤簿、出張旅費精算の伝票類、カラ出張費の各人別の配分計画票といった内部資料を手に入れる。偽装工作を示す文書もあった。そして、記者は鉄建公団の定期検査を控える会計検査院にこれら資料を持ち込み、検査院と協力し合う形で取材を進めた。
公費を食い物にする鉄建公団、霞が関の省庁の実態を記事にしていく過程で、取材班は想像を超えて寄せられる内部告発の量と質に圧倒される。「公費天国 告発キャンペーンの舞台裏」からそうしたエピソードを引用しよう。
これでもか、これでもか、と新しい「不正」が登場する。カラ出張、ヤミ超勤、ヤミ賞与、カラ出勤、過剰接待、無料パスの乱用などなど。いま、手元のある一日分のメモを見ても、専売公社、神奈川県、大蔵省、NHK、大田区役所、東京学芸大、税務署、電電公社、労働省などの名が出てくる。
私憤もある。が、これは数少ない。おおかたは公憤、義憤のたぐいだ。役所勤めの間、腹に溜まっていながら「言う勇気がなかった」と矛盾を吐き出す人。「仲間を裏切るつもりはないが、あまりにもひどいので」と書いてくる人もいる。退職者と若い女性からのも意外に多い。
告発以外に激励、注文もくる。「新聞がこれほどおもしろいと思ったことはかつてない」と。投書・電話をヒントに取材し、記事にし、また投書がくる。
山本博氏が言うように、公費天国キャンペーンは日本の「調査報道、事始め」だったと言えよう。この流れはやがて、ときの内閣を瓦解させたリクルート事件報道など数々の調査報道につながっていく。
ただし、こうした公金流用がメディアによって本格的に問われるのは、1990年代半ば以降のことだ。その間、関係機関の多くは一連の事態をただ眺めているだけだったようだ。結局、不正経理の多くはその後も生きながらえた。公金を使って官僚が官僚を接待するという「官官接待」もなくならなかった。1990年代になって都道府県のカラ出張や警察の裏金などが明るみに出たものの、解決に向けて政治や報道が本格的に動いた気配はない。そんな状況だからこそ、公費天国は形を変えつつ、今も水面下ではびこっているかもしれない。