◆「警察の言う通りに記事にしていたらと思うと……」
当時、さいたま支局のデスクだった石丸整氏は、2012年に東京で開かれた「調査報道セミナー」において、取材のプロセスを明かしている。それによると、「県警が住民を呼んで朝から晩まで脅しをかけて調書を取っている」という端緒情報をつかんだのは、入社3年目の記者だった。その後、支局の若手記者数人で取材を進めていく。実際に住民に会うと、全員が「無料接待されていない」「会費を払った。市議側から領収書ももらっている」と言う。これでは、市議による供応買収は成り立たない。
ところが、当然ながら県警は自信たっぷりだ。「鹿児島県の志布志事件以降、選挙違反の着手は厳しくなっているんだ」「選挙違反は県警個別の判断ではできない。警察庁捜査二課に相談した上で着手している」「市議らを逮捕したということは、固い証拠に基づいているからだ。起訴できなければ現職の市会議員は逮捕しない。あやふやな事件ではない」。そうした言葉が県警幹部から戻ってくる。記者たちも「やはり、逮捕イコール有罪は固い。有罪が固いということは、会合出席者、住民が会費を払っていないのだし、そういう住民が厳しく取り調べられるのは当然だ」と感じていた。
それでも支局記者は取材を続けた。会合出席者28人を割り出し、入院中の1人を除いて全員に取材をかけた。その住民の中に70代の高齢女性がいた。その女性に取材したのは、ネギ畑の中。アポなしで農作業中の女性のもとを訪れたのだ。作業の手を休めることなく取り調べ時の様子を語っていく。その姿を目の当たりにして、記者は「このおばあちゃんが語っている内容こそが真実だ」と直感したという。
住民側の取材を終え、証言強要は間違いないとの判断に至った。それでも、最後の最後まで記事掲載を逡巡していたと記者たちは明かした。取材メンバーだった当時入社5年目の記者は、こう語っている。
警察にも「むやみに捜査をかく乱したいわけではない。ぼくらの取材が間違っていたら教えてくれ」と迫ったけど、「確たるものはあるよ。でも言えない」を繰り返すだけだった。「書いたら毎日は終わるよ。住民にはめられているよ。うちは自信があるから絶対に勝つ」と県警に言われ続けた。
取材チームはレストランにも何度も行き、県警が描くような形での飲食が可能だったのかなども検証し、記事掲載に踏み切った。デスクだった石丸氏は言っている。
警察の話だけを聞いていたら、何が起きていたのかということに気づかないまま、逮捕されていた市会議員が起訴されて、裁判でうやむやになって注目されない事件になっていたのだと思う。他社も(警察が証言を強要しているという)噂があるぞ、ということは掴んでいたけど(実際にその取材には)入っていない。取材したのは毎日だけです。われわれは普段、警察の情報をもらって記事を書いているから、警察の情報と違うことを書くのは難しいと思っている。だから元々、そういう(警察発表の枠から外れる)ところには取材に行かないということが問題としてある。
冤罪事件を捜査段階でなかなか見抜けないのはなぜか。それは、警察がどういう証拠に基づいて立件しているのか分からないからだ。警察がしっかりした物証を持っているかもしれず、(報道に踏み切るには)怖いところがある。それと、報道自体が警察情報に頼っている問題。情報源を警察以外に持っていないからだ。これが捜査段階で冤罪事件を見抜けない理由だと思っている。警察報道全般の問題点でいうと、裁判なら被告側と刑事事件だと検察側双方の意見を聞いて書くことができるけど、警察の場合は、逮捕された時に一方的な情報しか手に入らないし、容疑者の供述も警察側から取るしかない。
日本の事件報道は、ほとんどが警察・検察の捜査側からの情報によって成り立っている。それが「人質司法」と呼ばれる悪弊が生きながらえている一員は、そうした報道の姿勢にあると言ってもいい。その歪みを放置したままでいいのか。毎日新聞さいたま支局の若手記者たちが担ったこの調査報道は、一見些細な、一地方の選挙違反事件の裏側を徹底取材することで、警察取材が抱える構造的な課題にも回答したのだった。
■参考URL
現代新書「冤罪と裁判」(今村核著)
単行本「雪ぐ人 冤罪弁護士・今村核」(佐々木健一著)
単行本「メディアは私たちを守れるか?―松本サリン・志布志事件にみる冤罪と報道被害」(木村朗編集)
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