◆「メッセンジャーは生きています」
奈良県から来た児島早苗さん(72)は、東京駅での初回展示から参加している。息子を亡くしたのは、鈴木さんの息子が事故に遭って間もない時期だった。
「参加者1人ひとりがアーティストと言われたけど、死者ばっかりの、しかも犠牲者の展示をいったい誰が見に来るんだろうと最初は思ってました。でも、メッセンジャーは彼らにしかできない仕事をしてるんです。生きてるんですよ、本当に」
メッセージ展とのめぐり合いを振り返る、「キャンドルアートの祈り」の参加者たち。鈴木さんも、怒りや憎しみから来る猛々しさが、多くの遺族との出会いを通して変わっていったという。
「メッセージ展はアートだから広がっていけた。たくさんの人が力を貸してくれて、私はただ石を投げただけ。一人で生きて行くんじゃないんだって実感したのは、息子を亡くしてから」
鈴木さんの言葉を聞き、山口県の京井和子さん(57)が「その石を拾ったのが私たち。地方にいて、まだ被害者支援などがなかったころです。ありがたかった」と応じた。2000年7月に娘の山根佳奈ちゃん(当時4)を失っている。発足当時からメッセージ展に参加し、ミュージアムの事務局スタッフであると同時に、大切な人との死別で悲嘆にくれる人を支える「グリーフサポートやまぐち」の代表を務めている。
京井さんは言った。
「今回のような座談会は本当のグリーフワークだと思います。自分たちがどんな体験をしてきたのか、同じような体験された方と集まり、口に出して言えることを無理なく話し合う。そして、当事者じゃなくても、ここにいるボランティアの方のように話を聞いて関わってくれる人もいる。もう一回、人間関係を構築してみようと思うきっかけになるんです」
ミュージアムは、学校に出かけていく「いのちの授業」にも力を注いでいる。子どもの自死や生きづらさに活動開始の初期から注意を払い、メッセージ展と遺族の講演を組み合わせ、「生きているだけで奇跡」と伝えてきた。
メッセージ展への関心や死生観も見る人の年齢とともに変化する。進学や就職などの節目に、1人でミュージアムに来たり、少年院から出所してすぐに立ち寄ってくれたりした生徒もいる。過去に見たメッセージ展を思い出し、その後、繰り返しミュージアムを訪ねる人も多い。
もちろんすべての子どもたちから打てば響くような反応が返ってきたわけではない。
「壇上から見ると、『またかよ』って感じで聞いてる子もいます。私は当事者として話すけど、重たく感じる子もいるかもしれないし、わかっていても命を大切にできない環境にあるのかもしれないし」
京井さんが講演先の学校で感じたもどかしさ。言葉だけでは思いが届かない体験をしてきたからこそ、視覚から入るアート展には強みがあるという。
◆命の大切さを自分事に
東京都日野市立日野第一中学校は2022年2月、コロナ禍で中断していたメッセージ展を再開した。メッセンジャーには、部活動中の指導で亡くなった生徒も含まれている。
前校長の高橋清吾さん(64)によると、12年前、学校内での初めての展示会にはハードルもあった。生徒が大人に対する不信感を覚えるのではないかとの懸念が寄せられた。
だが、髙橋さんは「子どもたちに自ら考えてもらう機会に」と開催に踏み切り、生徒たちと同世代のメッセンジャー全員を受け入れた。
展示を見た生徒からは「友達と再会した。小さかったから、どうしていなくなったのか分からなかった。今はどうしてか分かった。メッセンジャーの前にずっと座った。じゃあねと言って別れた。会えて嬉しかった」という感想文も届いた。
「命の大切さは言葉だけの理解ではなく、感じ取ることが大事。『こういうことだったのか』と腑に落ちる体験をしてほしい。そして、自分事として考えてほしい」と高橋さんは力を込める。
活動の創始者でもある鈴木さんも、次のように言った。
「息子たちの未来や夢は奪われてしまったけど、今を生き悩んでいる子の助けに少しでもなるなら、息子の命は生かされる。若い人たちにつなげたい。託したいんですよ」
「キャンドルアートの祈り」の翌日、11月20日も「いのちのミュージアム」には遺族らが集まってきた。
田中豊さん(67)は、子ども2人のメッセンジャーを生み出そうとしていた。娘・美央さんと息子・泰基くんを亡くしたのは1998年。子どもたちを後部座席に乗せ、乗用車で首都高速道路を走っていたとき、渋滞に差し掛かった。その最後尾で停車していると、居眠り運転の大型トラックが後ろから突っ込んできた。娘12歳、息子7歳。別れはあまりにも突然で、あまりにも悲しすぎた。くじけずに頑張れという周囲の言葉もつらい。