1万5000人が死亡した大阪空襲 語られてこなかった朝鮮人の被害体験(2020・8・13 Yahoo!ニュース特集)
太平洋戦争の末期、米軍が繰り返した大阪大空襲。市街地は焼け野原になり、死者は約1万5000人に達した。当時、多くの朝鮮人も犠牲になったが、被災体験の記録はほとんど残っていない。なぜなのか――。空襲下を「日本人」として生き抜いた朝鮮人たちの「語られなかった戦争」に耳を傾けた。
撮影:鈴木裕太
◆“東洋のマンチェスター”だった大都市で
大阪市北区中崎町は、レトロな雰囲気の残る街として若者にも人気がある。梅田エリアに隣接し、交通の便もいい。
80歳の金由光(キム・ユグァン)さんは、そこで生まれ育った。父は1931年、済州島からの直行船で大阪に来たという。戦前の朝鮮は「日本」であり、往来は盛んだった。
「貧しい暮らしを脱しようと、父が先に来て、後を追う形で母も来たそうです。母は無学で字も読めなかった。父の仕事は(荷馬車を扱う)馬力で、家は4畳半だったそうです」
金さんはそんな両親の下、1940年に大阪で生まれた。誕生時、兄と姉が4人。後に妹が生まれて6人きょうだいになった。
1941に開戦した太平洋戦争も1945年に入ると、米軍による日本本土への空襲が激しさを増し、金さんは毎回、近くの防空壕に逃げた。壕の中では、同じ年代の子どもたちとよく将棋を指した。
「朝鮮人も日本人も同じです。兄弟みたいにね。当時は、日本人とけんかをした思い出はありません。日本人も、朝鮮人をようかばってくれはりましてね」
金由光さん(撮影:鈴木裕太)
当時の大阪は、英国の工業都市にちなんで「東洋のマンチェスター」と呼ばれ、軍需工場や関連の機械メーカー、紡績工場などが集積し、大発展していた。1940年の人口は大阪市だけで約325万人、大阪府全体では500万人近かった。日本の総人口は約7193万人。1942年の警察統計によると、大阪市には約41万人の朝鮮半島出身者が住んでいたとみられる。
昭和初期の道頓堀(絵葉書)=大阪市立図書館所蔵
◆大阪は焼き尽くされた
そうした工場や街などを狙い、米軍の大阪大空襲は始まった。「大空襲」とは大型爆撃機のB-29が100機以上飛来した空襲を指し、それ以下の規模の空襲と区別されている。
大阪の「大空襲」は1945年3月13日から8月14日にかけて計8回あり、約1万5000人が亡くなった。空襲が激しかった東京都や原爆が投下された広島・長崎の両県に次いで、都道府県別の犠牲者では4番目に多い。
金さんが振り返る。
「父が買ったラジオが言うんですわ。『空襲警報発令』って。そしたら、庭の防空壕に逃げる。朝鮮人も日本人も仲良くね。その後、爆撃機のブーという音が聞こえてくるんです。艦載機もいる。(日本近海は)完全にやられとる(米軍に制空権を握られている)から、米軍は艦載機をばんばん飛ばしよる。相当の低空からバババババーンと機銃を撃ちよるんです。艦載機が一番怖かった」
大型爆撃機はテニアン島などを拠点とし、本州に焼夷弾を雨のように投下した。
「B-29も怖かった。警戒警報が発令されてからすぐに編隊を組んで飛んできた。その頃、一番大きいのが1トン爆弾で、ズドーン、ズドーンと音がする。焼夷弾の音は違うんです。シュルシュルという音。爆弾は爆発するだけやけど、焼夷弾は焼け野原を作るんですわ」
「大阪大空襲の体験を語る会」が収集した体験画(提供:新聞うずみ火)
大阪を焼け野原にした計8回の大空襲。金さんは特に6月の大空襲をよく記憶しているという。5歳だった。日にちは判然としないが、午前中だった。ラジオが「空襲警報発令」と告げ、金さんは急いで家から逃げた。
「なんで防空壕に逃げなかったのか分からんけど、淀川の堤防まで走っていったんですよ。堤防には1000人ぐらい(避難して)おったかな、ずらーっと並んで。その時、爆風が来た。バババババッとやられて、東の(堤防にいた)方々が全滅した。その時の犠牲者、513人でしたか。お寺の過去帳に全部手書きして名が残ってます」
梅田方面からも大勢の人が逃げてきた。時刻は午前10時ごろ。爆撃で空は真っ赤になったという。
「梅田の方向、空が真っ赤ですわ。夕焼けみたいでしたよ。(それを見ながら)みな、『うちの家はもうないわ』って言い、空襲警報が解除されて三々五々、帰ったんです。別の日には、道で下向いて倒れている老人を見ました。その方、焼かれて真っ赤になってる。少しだけ残った服は黒焦げ。焼夷弾でしょう」
大阪大空襲後の心斎橋・島之内付近。三津国民学校の屋上から難波方面をみる。中央遠方は難波高島屋。1945年3月14日ごろの撮影と思われる(提供:公益財団法人・大阪国際平和センター、前田日登美氏撮影)
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