「お産SOS 東北の現場から」が示した重い現実 “日常”を掘り下げて見えたものとは

  1. 調査報道アーカイブズ

河北新報(2007年)

[ 調査報道アーカイブス No.62 ]

◆激務の中で産科医は疲弊、そして自死

 東北の有力地方紙・河北新報(本社・仙台市)の紙面で、「お産 SOS」が連載が始まったのは、2007年の1月だった。産科医が減り、子どもを安心して産める環境がどんどん失われていく。その実態を克明に掘り下げた調査報道ルポだ。いま読み返しても、深く、重い。

 「お産SOS 東北の現場から」の初回には、「崩壊の瀬戸際」「減る産科医、忙殺の連鎖」という小見出しが振られている。

 「5日と2時間」。通知書類には直前の9カ月半に取ったわずかな休日数が記されていた。
 東北の公立病院に勤めていた産婦人科医。2004年、過労死の認定を受けた。亡くなったのは01年暮れ。自ら命を絶った。53歳だった。「僕が地域のお産を支えているんだよ」。家族に誇らしげに語っていた。
 亡くなる半年前、医師5人だった産婦人科で1人が辞めた。後任は見つからない。帰宅は連日、夜の10時すぎ。昼食のおにぎりに手を付けられない日が増えた。床に就いても電話が鳴る。「急変した。診てもらえないか」。地元の開業医や近隣の病院からだった。「患者さんのためだから」。嫌な顔一つせず、職場へ舞い戻った。
 心身の負担は限界に達しつつあった。ようやく取った遅い夏休み。一人の患者が亡くなった。「自分がいたら、助けられたかもしれない」。食は細り、笑顔も消えた。「つらいなら、辞めてもいいよ」。見かねた妻が言った。「自分しかできない手術がずっと先まで入っている」。そんな責任感の強い医師が死の前日、同僚に漏らした。
 「もう頑張れない」
 家族あてとは別に、「市民の皆様へ」という遺書もあった。お別れの言葉をしたためていた。
 「仕事が大好きで、仕事に生きた人だった。そんな人が頑張りきれないところまで追いつめられた」
 妻は先立った夫の心中をこう思いやる。

 この記事が掲載された2007年度、東北の6大学医学部・医大で産婦人科医局の新人はたった8人しかいなかったという。東北大と弘前大はゼロ。学生が産婦人科医になりたがらないという現実があった。同年度までの10年間で医師の数は全国で約4万人増えたのに、産婦人科医は逆に約900人減った。それでいて仕事が減るわけではない。お産の可能な病院はどんどん減り、県立病院や市立病院でも分娩不可のところが増えていく。

イメージ(撮影:穐吉洋子)

 

◆地吹雪の中、60キロ先の産科へ 出産間近の妊婦が自らハンドル

 連載2回目はさらに厳しい現実を読み手に突きつける。記事に登場するのは、青森県深浦町の主婦(36)。初めての子どもの出産を控え、約60キロ先の五所川原市の病院へ向かう。隣町の公立病院が分娩の取り扱いをやめたからだ。冬道であってもハンドルを握っていくしかない。圧雪からアイスバーンに変わった道路。地吹雪の中を病院へ通う日々が描かれる。

 次から次へと登場するシビアな現実を前に、多くの読者は驚き、言葉を失ったのではないか。恐らく、こうした現実は今、さらに進んでいるに違いない。そして、それは東北に限らない。

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高田昌幸
 

ジャーナリスト、東京都市大学メディア情報学部教授(調査報道論)。

1960年生まれ。北海道新聞、高知新聞で記者を通算30年。北海道新聞時代の2004年、北海道警察の裏金問題取材で取材班代表として新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞などを受賞。

 
 
   
 

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