「クラウディアからの手紙」はこうして制作された 戦争を超え、日ソの国境も越えた愛の物語

  1. 調査報道アーカイブズ

日本海テレビ(1998年)

[ 調査報道アーカイブズ No.89 ]

◆「すぐ帰ってくる」から半世紀 生き別れた妻子と鳥取で再会

 「足が震えて、言葉になりません」「飛行機が日本に近付いた時はどきどきしました。ロシアの風と違って、日本の空気は和やかな気がします」ー。敗戦後、旧ソ連に抑留され、帰国できないままロシア・アムール州のプログレス村で暮らしていた滋賀県出身の故・蜂谷弥三郎さんは、新潟空港に到着した際、報道陣にそう語っている。今から25年前、1997年3月のことだ。蜂谷さんは当時78歳。半世紀ぶりの祖国・日本だった。

 戦時中、蜂谷さん一家は日本の植民地だった朝鮮半島で暮らし、敗戦後の1946年、混乱の平壌でソ連兵に拘束された。見に覚えのないスパイ容疑。シベリアの強制収容所に送られ、7年の出所生活を終えた後も国家保安委員会(KGB)の監視下に置かれた。日本との連絡は遮断され、平壌で一緒だった妻と1歳の娘がどうなったかもわからない。蜂谷さんはその後、紆余曲折を経て旧ソ連の国籍を取得し、ロシア人女性のクラウディアさんと現地で結婚した。

 旧ソ連が崩壊し、蜂谷さんらの運命は変わった。1996年夏、蜂谷さんはナホトカの外国語学校で日本語を教えていた日本人にロシア語と日本語の手紙を託し、それが鳥取市に住む妻の元へ届いた。「2、3日で帰るから心配するな」の言葉から半世紀。ようやく夫妻は互いの消息を知ったのである。妻は実家のある鳥取に戻り、再婚もせず、保健師をしながら1人で娘を育て上げた。

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◆ロシアの妻「他人の不幸の上に私だけの幸せは築けない。日本に帰ってあげて」

 事情を知った蜂谷さんの妻・クラウディアさんは、夫に帰国を勧めた。ところが蜂谷さんは同意しない。厳しいシベリアでの生活を長く共にしてきた。そう簡単にクラウディアさんをひとりにはできないと思ったからだ。

 そんな夫に向けて、クラウディアさんはこう伝えた。

 他人の不幸の上に私だけの幸福を築き上げることはできません。涙を見せずに、お別れしましょう。

 これが日本で広く知られることになった、蜂谷さん夫妻とクラウディアさんの物語である。のちに何冊か書物になり、テレビドラマや舞台劇にもなったが、その皮切りは鳥取の民放・日本海テレビが制作したドキュメンタリー番組『クラウディアからの手紙」だった(1998年11月17日、「NNNドキュメント’98」で放送)。番組は横浜市の公益財団法人・放送番組センターの「放送ライブラリー」に収蔵されている。物語の展開は、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが主演の名作映画『ひまわり』(1970年)を彷彿とさせる。

 番組のプロデューサーだった古川重樹氏は、「民放くらぶ」2015年3月号に制作当時の様子を寄稿し、次のように書いている。夫妻が半世紀ぶりに再会する日。日本海テレビの取材クルーは、JR京都駅から特急列車に乗り、蜂谷さんと一緒に鳥取駅を目指していた。

 やがて列車はJR鳥取駅の3番ホームに到着する。ホームでは妻の久子さんが待っている。カメラはアップで久子さんの顔をとらえている。突然、久子さんの表情が輝く。その表情はまるで50年前に戻った一瞬だった。突然駆け出す久子さん。小柄な彼女が飛び込んだのは、列車から降り立った懐かしい夫の胸のなかだった。人目もはばからず、ホームで抱き合う老夫婦。

 これまでニュースやドキュメンタリー取材でさまざまな映像を見てきたが、これほど心ふるわせる映像は初めてだった。

『クラウディアの手紙』の番組タイトル

 

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高田昌幸
 

ジャーナリスト、東京都市大学メディア情報学部教授(調査報道論)。

1960年生まれ。北海道新聞、高知新聞で記者を通算30年。北海道新聞時代の2004年、北海道警察の裏金問題取材で取材班代表として新聞協会賞、菊池寛賞、日本ジャーナリスト会議大賞などを受賞。

 
 
   
 

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